誕生、幼年期のエピソード、預言者としての召命、そして死まで記録されている人物は聖書の中ではたったの三人しかいません。モーセとこのサムエルと主イエス・キリストだけです。サムエルはそれくらい重要な預言者・祭司です。このサムエルによってサウルとダビデという二人の王に油が注がれることになります。メシアというヘブライ語も、キリストというギリシア語も「油注がれた者」という意味の言葉です。「キリスト(メシア)の三職位」と言われるのですが、旧約では大祭司、預言者、王だけが油を注がれて任職される、つまり神様から直接聖別され任職されるのです。この三つの職がメシア、キリストとは何かを意味するのです。最初の二人の王に油を注いだのがサムエルです。
しかしこの書物「サムエル記」とは付けられていますが上巻の半分16章でサムエルは姿を消し、あとは19章に少しだけ28章に至っては幽霊で登場するだけで、この書物は本当はダビデ王のことが書きたいのだということが明らかになってきます。でもダビデはサムエルのように出生のことまでは記録されません。扱いは下なのです。
私たちはこれまで礼拝で士師記を丹念に読んできましたからこそ気づくことがあります。士師記の始めの方、例えば女士師デボラの時代なら全イスラエル12部族が一致団結して900両に及ぶ鉄の戦車隊という当時の最新兵器を持つ敵に戦いを挑むことが出来たのに、時代を経るに従って、ギデオンの時にはたった300人に減り、12番目の士師サムソンの時にはたった一人が活躍…という具合に、人間の側の結束はこれまでどんどんしぼんでいき、逆に神様の側の介入こそが中心になっていったという歴史が続いていました。
サムエル誕生のエピソード、特にその名の由来はそういう約束の地に生きる民の暗黒時代を示しています。新共同訳は「その名は神」という意味だと補っていますが、むしろ一般的には「神は聴かれた」という説が強いようです。聴くということが疎かにされ、十二部族の結束が無くなり、家族や夫婦の結束も弱まり、更に信仰生活にまで及んでいたという時代なのです。夫エルカナは何が妻を苦しめているかに全く無頓着でしたし、3節に名が記録されている祭司エリの息子たちこそ2章で神様の名を使って私腹を肥やしていた不祥事の張本人であったのに父であり祭司エリは目をつぶっている。エリはサムエルの母ハンナの苦悩の祈りを酔態と誤解したばかりか、そのことが後ろめたかったのかハンナの苦悩をちゃんと聴いてあげることさえしていません。エリがハンナに語った「安心して帰りなさい」という言葉は、英語聖書など他の言葉の訳で読むと良く分かりますが、福音書に出てくる主イエスの衣のすそに触れて癒された長血の女性にかけられた言葉と全く同じです。でも主イエスと祭司エリのこの全く同じ言葉には天と地の開きがあります。主イエスの言葉は自分に押し寄せる無数の群衆の中からこの一人の女性を探し出し、事情を詳細に聴いた上での宣言です。祭司エリの言葉はいかにも勿体をつけた紋切り型の派遣の宣言です。エリがハンナの事情を聴いたのはサムエルが物心ついてナジル人の誓いがなされ、エリに預けられる段になってからです。隣人の苦悩に耳を傾けられないエリには神の言葉を聴くことも出来ません。この人がヨシュア記18章以来十戒を収めた神の箱が置かれ続けた由緒正しいシロの神殿の祭司であったところにこの時代の暗黒があります。
サムエル―「神は聴かれた」。人間が互いに対しても、神様に対しても耳を傾けようとしない時も、神様は私たちに耳を傾けておられる。神の言葉を取り次ぐべき祭司が聴こうとせず、耳をふさいでいるなら、神殿の小僧の口を通じても「神は聴かれておられる」ことを示される。油注がれた王が神様に聴くことを忘れ、口寄せに頼るような事態になっても幽霊の口を通してまでも(28章)示される。神様はそうやって長血の女性の時と同じように私たちの暗黒に介入してこられる。それが「サムエル記」のテーマなのです。