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10月26日 |
「礼拝に癒される」 |
荻窪教会 龍口奈里子副牧師
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詩編94:17〜19
マタイによる福音書15:21〜28
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<メッセージ>
伝道礼拝3回目の今日は、礼拝は癒される場所であるということについて考えたいと思います。礼拝はしばしば「悔い改めの場所」だと言われます。また「キリスト教の福音は、罪からの解放である」とも言われます。けれども、私たち人間を歪めてしまうのは、罪だけでしょうか。
私たちは病気をし、その先にある死の恐怖を持つことによって、苦しみ、そして歪められていきます。私たちは罪という人間の奥深い魂だけでなく、病気という身体の苦しみからも解放されなければならない。身体を持った者としても、神様が創られたものにふさわしく、回復されなければならない。それを福音は私たちに約束し、聖書の数々の「癒し」の物語の中で伝えています。やがて来る神の国で、私たちは身体も魂も回復されたものとして蘇る、そのしるしとして主イエスの癒しがあり、それはすべての人に与えられる解放のしるしなのです。
先ほど読んだマタイ福音書の箇所では、異邦人の女性が娘の病気を癒してほしい、とイエスに懇願します。女性はいきなり主イエスの前に現れ「主よ、ダビデの子よ」と叫びます。異邦人でありながら、イスラエル的なメシア告白をするという、ちぐはぐな呼びかけから、彼女の苦しみの危機的状況がうかがえます。しかし、叫び続ける女性に対して、主イエスは沈黙されたままでした。
この女性にとっての癒しとは、差し迫った苦しみを神がたちどころに叶えてくれるのではなく、神の御心、神の願いに彼女自身がどう答えるのか、そのことにありました。「どうかお助け下さい」と願う彼女に、主イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。「子供たち」とはイスラエルのこと、「小犬」とは異邦人のことです。イエスは、神の御心とは、イスラエルの民にまず届けられるものであって、異邦人には及ばないというのです。
これに対して彼女は「主よ、そのとおりです」と言い、「でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と付けるのでした。彼女は、イエスの言葉の中に、主ご自身がアブラハムから引き継がれているイスラエルの民の救いの約束が前提となっていることを読みとりました。しかしそれでも、もし神が神として、神の御心を示されるとしたら、それはイスラエルの民が立派だからだとか、素晴らしい何かを持っているからという理由ではなくて、ただ神が神としてある、それだけではないのか。だとすれば異邦人である自分の所にも、神の御心が働いてもいいのではないか、自分も心の底から救われ、癒され、慰められて生きてゆきたいという、この彼女の信仰こそがイエスを変えたのでした。彼女の信仰が、神への応答だったのです。
マルティン・ルターはこの箇所について「キリストは無情に語っておられるようにみえるけれども、必ずしも絶対的な「否」いいえ、を語っているのではなく、宙にういているだけなのだ」と述べています。主イエスは彼女に対してイエスともノーともおっしゃってはいません。大切なのは、神の言葉に対する信頼を持って、「否」の下にある秘かな、そして確かな「然り」を捕まえる、それが信仰なのだというのです。
主イエスの言葉が自分の魂の底に届き、慰められ癒されるということが、この礼拝の中で起こります。苦しみや悲しみが襲うとき、そこにぴたっと寄り添い支えて下さる方を信じるならば、そこからまた新しい命が開かれていることを信じたいと思います。 |
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