10月19日
「礼拝を祝う」  

神戸聖愛教会 小栗 献牧師

                     ネヘミヤ記8:9〜12
                     マルコによる福音書2:18〜22
<メッセージ>
結婚式に招かれたら……
結婚式に招かれて披露宴に出かける時の華やいだ気分は、昔も今もあまり変わらないかも知れません。服装や髪型も、普段とは違った改まったものにして出かけるのではないでしょうか。そうした婚宴では世界的に共通して飲食がつきものです。私たちは食事を共にすることで、大げさに言えば「生きる喜び」を分かち合っていると思うのです。こうしたことは、2000年前の時代の聖書の世界の人々にとっても、そうであったに違いありません。

イエス様の時代の断食
さて、そのような宴に招待されたとします。その中に1人暗い顔で「私は断食中で食べない」と言える人がいたとしたら、その人はかなり神経の太い人です。もしダイエット中の方でも、前後の食事は抜いてでも婚宴では楽しく食べるでしょう。そう考えると、今日の聖書の個所に書かれている言葉は、特別に難解ではないと思います。
花婿を迎えて喜びの婚宴に招かれているような時は断食の時としてはふさわしくないのです。ここでの花婿とはもちろん「イエス様」です。
「断食」とは聖書の時代において、どういうものだったのでしょうか?ここに出てくる人々は、イエスの弟子たちがなぜ断食をしていないのかと非難しているのです。この時代、断食は信仰的な行為と考えられていましたので、イエス様とその弟子達がいつもいろんな人々と、とくに社会の外にいるような人々と飲食を共にし、断食をしていないことに、ある人々は苦言を呈しているのです。
しかし、イエス様が聖書のこの個所で言われている本質的な内容は、断食すべき時がやがて来るのである、ということなのです。

今の時を見極める
イエス様は、「かつては婚宴を喜んだ人々も皆、その悲しみを共にして断食をする時がくる」と言われます。それはイエス様が十字架につけられて、やがて死ぬことを意味しています。花婿が十字架の上で、花嫁の眼前で殺されるのです。その時には弟子たちは断食するほかはないだろうと言うのです。
イエス様は断食そのものを否定したのではありません。今がどういう時かを見極めるべきだと言われたのです。そのことはこのあとに語られている喩えである革袋の喩えでも語られています。発泡性を持っているごく新しいぶどう酒を革袋に入れると中から空気が出てきて袋がぱんぱんになり、古い革袋を使うと破れてしまう。だから新しい酒には新しい丈夫な皮袋を使わなければならない。しかし発酵が終わって落ち着いたぶどう酒は、むしろ年代を経た革袋の中でゆっくり寝かせた方がおいしくなる、ということなのでしょう。
この喩えのように時を見極めること。今がどのような時であるかをよく考えなければならないとイエス様は言われます。そしてイエス様が弟子たちと共にいて、一緒に食事をすることができる、お語りになることができる、人々の苦しみを聴き、病を癒すことができる。それは素晴らしい喜びの時なのだ、それは結婚の披露宴のような晴れがましい時なのだ。そして、それは人生の中でも特別な時なのだと、イエス様は言っておられるのです。

礼拝は復活の記念日
さて、私たちがここに集まって礼拝をしている「今」という時はどういう時代でしょうか?今は婚礼の時?それとも断食の時でしょうか?
 イエス様は確かにこの世から奪い取られました。しかし私たちは主イエスの復活の後の世界に生きています。イエス様は復活して、弟子たちにその姿を現わし、そして言われたのです。「わたしは世の終わりまであなた方と共にいる」。 そのことを本当に信じるなら、花婿なるイエス様は私たちのところにおられるのであって本来的には断食の時ではあり得ないはずです。
 イエス様が復活された後、イエス様を信じた人々は、それまで安息日とされていた土曜日ではなく、キリストの復活の日である日曜日に礼拝を行うようになりました。ですから、毎回の礼拝は復活の記念日でもあります。礼拝とは復活したイエス様が私たちと共にいてくださることを祝い合う日なのです。
そしてさらに、礼拝はやがて私たちが神の下に招かれる神の国での祝宴の、地上における先取りでもあります。今からもう約束された宴会を地上で始めてしまっているのです。そうやって毎週、喜び祝いながら、終わりの時に私たちを待っている本当の祝宴、私たちの目標であり希望である時を仰ぎ見ているのです。

絶望の中で作られたニコライの賛美歌「起きよと呼ぶ声」
「婚礼の祝い」という言葉から多くの方々が思い出す賛美歌は、説教の後に歌う「起きよと呼ぶ声」であろうと思います。10万曲を超えるドイツの賛美歌の中に燦然と輝く賛美歌とされています。この賛美歌のもとになっているテーマは10人の乙女の喩えであり、裁きの時への備えをせよという厳しさを含んだ内容ですが、この賛美歌作者のフィリップ・ニコライはむしろこれを溢れんばかりの婚礼の喜びの歌として書きました。
実は彼がこの賛美歌を作った時代背景は、牧師として働いていた町をペストが襲い、毎日のように人々が死んでいき、彼は1日に30人の葬儀をしなければならなかった日もあるような絶望的な状況でした。地獄のような現実の中に、ニコライは天上の喜びの祝いの時が今にも始まるという情景を賛美歌によって描き出したのです。それを礼拝の中に投げこんだのです。この祝祭的な音楽は、バッハのカンタータ一40番にも引き継がれています。

礼拝は「祝う」もの
日本では礼拝を「守る」と表現していますが、最近世界中で「祝う」と言う表現が広がっています。英語ならcelebrateドイツ語ならfeiernです。本来、礼拝には結婚のパーティーに行くような晴れがましさ、期待、喜び、そして浮き立つ楽しさがあるはずであり、そうでなければ礼拝のことをもう一度考え直さなければならないと思うのです。
礼拝は、受難日の礼拝のような日は別として、断食の時ではありません。断じてそうではありません。断食をするような思いで礼拝するということはあり得ないはずです。
英語のセレブレイトとは本来は「名前を高く上げる」「ほめたたえる」から来ているようです。何をかといえば、それは申し上げるまでもなく、「イエス様」であり、ここにこそ祝いの根源があります。
 礼拝という婚宴では食事は出ませんが、主の食卓を囲んでいるのです。そして神様からの糧であるみ言葉を共に分かち合い、共に食べている。それが私たちの内なる人を造り上げていきます。そして終わりの日への望みを確かなものとしていきます。そうした喜ばしい礼拝に、一人でも多くの人々を招いて、終わりの時にいたるまで、花婿なる神が共におられる礼拝を祝い続けてまいりたいと思います。