<メッセージ>
今日の聖書の個所には、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という主イエスの有名な言葉が出てきます。そもそもこの言葉を主イエスが発したのは、主イエスを殺そうと計画している人たちの問いに対する答えからでした。彼らは自分たちの宗教的権威がイエスによってないがしろにされることを恐れ、自分たちの立場を守るために、民衆の心をイエスから引き離すことに躍起になっていたのでした。
それには彼らが発した問いがもっとも効果的でした。
21節「・・ところでわたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」
ここでいう「皇帝」とはローマ皇帝のことです。主イエスの時代のユダヤはローマの属州であったため、ローマ帝国に税金を納めていました。しかし、そこで徴収された税金は、ユダヤが皇帝の直轄領であったため、皇帝のためだけに徴収されて、当のユダヤの住民たちには一切還元されませんでした。誇り高いユダヤ人にとって、ローマ人に支配されているという屈辱に加えて、理不尽な重税にも屈しなければならないというのは、ますます反ローマ、自分たちを救ってくれるメシア待望につながっていくのでした。
ちょうど時は過ぎ越しの祭の直前です。
ファリサイ派やヘロデ派の人たちからすれば、主イエスの傍からひと時も離れない民衆の心を、主イエスから遠ざけたい、そんな思いがありました。
そこでもう一度、ファリサイ派たちが出した問いに戻ります。
21節「・・ところでわたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」
これは大変巧みな問いです。
もし、主イエスが「皇帝に税金を納めよ」と答えたならば、主イエスに従っていた反ローマの民衆の心はイエスから離れていくでしょうし、反対にもし、「税金なんて納めなくてよい」と答えたならば、ローマへの反逆罪として、ローマに引き渡すことができます。
しかし主イエスが答えたのはこうでした。
24節「デナリオン銀貨を見せなさい」
イエスは、当時の通貨であるデナリオン銀貨を見せなさいといわれるのです。そこにはローマ皇帝の肖像が刻まれていました。主はそれをご覧になって「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」といわれたのでした。皇帝のものは皇帝に、元々の持ち主に返すのだといわれるのです。そして続いて「神のものは神に返しなさい」と続きます。
では「神のもの」とは何なのか。主イエスは何を神に返しなさいといわれるのでしょうか。それは、デナリオン銅貨には皇帝の像が刻まれているように、私たち人間には「神の像」が刻まれているのだということです。だから、私たちは神のものなのです。そしてもし、私たちが神のものであるならば、私たちは神に返さなければならないということになるのです。主が、「神のものは神に返す」といわれるのは、私たち自身を神に返す、ということなのです。私たちは自分の時間や、自分の才能も、自分の命すら、すべて、自分たちのものだと思っているけれども、本当はそうではなくて、私たちに、その像を刻まれた神さまにすべてをお返しし、神と共に生きる生き方へと方向転換しなくてはいけないのです。
たしかに「神のものを神に」という生き方はとても難しいことです。私たちは自分の正義を貫くために、自分の信仰すら、神としてしまったり、人を裁いたり、人を追い詰めたりしてしまうからです。でもどんなにあがいて見せても、私たちのいのちは神様のものなのですから、神様のみこころが働いているのです。
「神のものは神に返しなさい」というこの主のみ言葉は、私たちが自分の持っているものを、全部自分のものだと思って、それにしがみつき、そこから自由になれないでいる、そんな私たちに、安心してそれを手放し、神様のみ手に委ねて生きよ、と語りかけてくださっているみ言葉なのです。
私たち、この世に誕生してから、命をまっとうする時まで、いつも何かにしがみついていてばかりの歩みですが、それでも、主はそこから解き放たれて生きなさい、と呼びかけていてくださるのです。ちゃんとした信仰生活を全うしようと思う必要などありません。ただ神様に委ねて、私たちの今日も、明日も、そのすべてが神様のものであることをしっかりと心に刻んで、歩んでいきたいと思います。
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