<メッセージ>
今回の伝道月間は、人間を奮い立たせ、再起させる夢・幻をテーマとして取り上げました。日本語では、何か儚いような、すぐ消えてしまうようなニュアンスのある夢・幻という言葉ですが、英語では、ドリームとかビジョンとか、心躍る、積極的なものです。そうしたものを神様は聖霊を注いで私たちにお与えになると聖書の預言者ヨエルは語りました。夢も希望も幻もあったものではないように見える時代で、いや、そうではないと、新たに夢と幻に立ち上がっていくことができる、夢と希望をリレーのように受け継いでいく歴史の中に私たちは立っているのだということを、聖書の中に聴いていこうと思います。
第一回目の今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。旧約聖書にある七週の祭り、あるいは仮庵の祭りというのを受け継いで、キリスト教の三大祭りの一つになったのが、ペンテコステです。ペンテコステでは、主イエスキリストが約束された聖霊が降って、私たちの教会が生まれました。聖霊が降るという形で、私たちは神様ともう一度新たに契約を結び直して出発したのです。
今日の聖書の箇所は、ペンテコステに聖霊が降って、ペトロが第一声を上げてした説教の前半部分です。使徒言行録の一章十五節に、百二十名ほどの人が集まっていたことが記録されていますが、ペトロの長い説教が終わった後、その日の内に三千名ほどが仲間に加わったとあります。たった五十日前にイエス様が十字架にかかったというときに、もう百二十名の人が集まって、しかもペトロの話を聞いて三千名がそれに加わったということを読みますと、本当に生々しくイエス・キリストは復活したんだ、皆それを目の当たりにしたのだ、これはもう証明以外の何者でもないという学者がいるくらいです。
このペトロのペンテコステの説教は、決して雄弁な説教、名演説であった訳ではありません。いきなり旧約聖書のヨエルの預言を読み上げていて、むしろ退屈な説教に感じるかもしれません。しかもエルサレムの人から見ると、ひどく聞きづらいガリラヤ訛りの、いかにも漁師さんらしい言葉でしゃべり出すのです。ペトロの説教が聞きやすかったからとか、雄弁であったからとか、名演説であったからとか、そしてそれがそこに居合わせた人の心に届いたからペンテコステの出来事が起こったのではないのです。そうではなくて、神様の霊、聖霊がそこにいた人たちを動かしていったからこそ、聞きづらいガリラヤ訛りの、旧約聖書の引用から始まるような解りにくいペトロの説教が人々の胸を打ち、三千人の人が主の群れに加わらざるをえないと思うほどの思いに駆り立てられていったということなのです。
今年のゴールデンウィークは、ガソリン値上げ、後期高齢者医療制度の問題、女子中高校生のむごたらしい殺人など、将来の夢やビジョンを描けない時代を象徴するようなニュースで溢れました。こういう悪循環の世界の中で、聖書の人たちはどこでビジョンを持つことになったのか。希望は私たちの内側にあったのではありません。私たちが必要十分な条件を築きあげたから、聖霊が降ってくるのではないのです。神様は、イエス・キリストは約束して下さった。その約束を待っていた人たちの所に聖霊が降ってきたのです。教会の歴史はそういうペンテコステの歴史の連続です。私たちの希望の源に、神様から送られてきた聖霊があるということを、私たちは心に刻んで歩んでいきましょう。
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