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3月23日 |
「婦人よ、なぜ泣いているのか」 |
小海 基 |
(出エジプト記15:19〜21)
(ヨハネによる福音書20:1〜18)
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<メッセージ>
教団の聖書日課に従って今年の受難節はヨハネによる福音書を読んでまいりました。この福音書では復活の主との出会い方が他の福音書とは違っていて、最初にたった一人のマグダラのマリアに現れたことが強調されています。他の福音書なら、おびえながらも集まっていた弟子たちの群れに、食卓の席に復活の主が現れた。だから私たちも礼拝の場で復活の主と出会うのだと説教する所なのですが……。
マリアが二人の天使と会話を交わしているすぐうしろに誰かが立っていました。しかしマリアにはそれが復活された主イエスだとは分かりませんでした。絶望のうちにたった一人で泣いていたマリアに、主の方から声をかけてこられたというのです。
私たち人間が親しい者の死を受け容れるのは大変な作業です。この受難週に二人の子どもを殺害した畠山鈴香被告に無期懲役刑が宣告された事が報道されました。判決直後に涙ながらに子の両親に土下座したけれども両親はどうしても赦せなかったと報じられていました。突然の死、心の整理もつかずに現在も続く両親の苦しみを垣間見る思いです。誰にも分かち合うことのできないものでしょう。
ヨハネ福音書の描く、主が最初に現れたのは背負いきれない孤独と絶望にさいなまれて、誰ともそれを分かち合うことの出来なかった一人の女性であったというところに復活のリアリティーがあります。
ベトナム戦争からの脱走米兵をかくまうなどの平和活動で有名な「ベ平連」のリーダー故小田実のドキュメンタリー番組を見ました。「闘いはいつもたった一人でするものだ」と彼が静かに語っていたことが非常に印象的でした。たった一人で死の現実にたじろぐしかないマリアに復活の主が現れて「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と訊ねたのです(一五節)。懐かしい声で「マリア」と呼びかけられ、「ラボニ」(私の先生)といつものように答えた時、主は本当に復活されたという現実に出会ったのです。トマスのように手の傷口に触れなくてもマリアは確信することができました。
「わたしにすがりつくのはよしなさい」(一七節)の原語は、マリアが実際にすがりついたからこそ出た言葉ともとれる表現だと言われます。それを制して主はマリアに「父のもとに上る」ことを伝えなさいと命じます。つまり主の復活に出会ったマリアには、いつまでもたった一人の状態に留まっていないで主の復活を仲間に伝える役目が与えられるのです。
その後、孤独に沈む弟子たち一人ずつに復活の主が同じように出会っていかれたことを新約聖書は伝えます。猜疑者トマスにも裏切り者ペトロにも、そして迫害者パウロにさえも出会われたのでした。「ケファに現れ、その後十二人に現れ、…五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ…ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、つき足らずで生まれたようなわたしにも現れました」とパウロは記しています(Tコリント一五章四節以下)。
復活の主は、現在の私たち一人一人にも出会い、交わりへと招いてくださるのです。
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