10月28日 2007年秋の伝道礼拝 第3回
立ち止まる愛  
龍口 奈里子
                     (詩編57:1〜4)
                     (ルカによる福音書18:35〜43)

<メッセージ>
その人の一生は何で決まるのかといえば、それは「出会い」です。
先週説教された尾毛先生は、出会いの原点は「叫び」だとおっしゃいました。ある人の必死の叫びを祈りとして聞くところが教会だと言われました。聖書が語る愛は抽象的なものでなく、行為を伴うものなのです。
しかし今日の説教題を私は「立ち止まる」愛としました。「立ち止まる」とは一見、何もしない、停止した状態のように思えますが、それがなぜ神の「愛」を表すのかを聖書のみ言葉から聞きたいと思います。

さて、バルティマイ(マルコ10・46)という盲人の彼はエリコの町の大通りでいつも物乞いをしていました。しかしこの日はいつもと様子が異なっていました。体に当たる風や人々の足音でそれを感じ取り、ナザレのイエスがこの町をお通りになり、群集があとを追いかけていることが分かったのでした。
主イエスは実は最後の受難予告を弟子たちにして、エルサレムに向かっておられるところでした。しかし弟子たちは受難予告の意味が理解できないまま(31節以下)で、理解されない孤独なまま黙々と先頭に立って急がれるイエスの姿がそこにありました。ここで主イエスと盲人との出会いが起こったのです。
彼は人々が黙らせようとしても、ますます大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(39節)と必死に叫びました。
ここでの2人の出会いは大変対照的です。方やバルティマイの力のみなぎった叫びは行動が伴っています。一方イエスは立ち止まっただけでした。しかしそれは叫びに応えた愛に満ちた行動であり、主イエスの大きな愛による出会いでした。
ある聖書学者は、主イエスのエルサレムへ向かう「受難への旅」は、いわば「神の進め」というみ心によるものである、と申します。
目的地まであと少しの急ぎ足の中にあっても主イエスは、盲人と出会い、闇の中にある一人を救い出し、神の愛を伝えるために立ち止まられたのです。
「受難への旅」が同時に「救いの旅」となった瞬間です。いわば「神の進め」と「神の止まれ」が同時に起きた出来事です。
「神の止まれ」は単なる休息ではありません。主は眼差しを盲人に向け、「何をしてほしいのか」とお尋ねになり、彼は「主よ、目が見えるようになりたいのです」(41節)と答えます。イエスは深く憐れまれて、彼は目が見えるようにされたのでした。
バルティマイは障がいを抱え、非難と差別の中で愛されることなく、道端に座って物乞いをし、生きることがつらく、頼るものも支えるものもない状況に置かれていました。その傍らに主は「立ち止まって」じっと闇の中にある1人を見つめておられるのです。主の憐れみの眼差しを彼は心の目でとらえました。それが「信仰」です。
しかし2人の出会いは、彼の信仰が本物だったからというよりも、ただ主の憐れみによって彼がとらえられた瞬間だったというのが正しいと思います。
私たちの人生が、たとえ途方に暮れる日々であったとしても、「受難への道」を急ぎ歩まれ、誰からも理解されないまま十字架に架かって愛を行動で示された主が「立ち止まって」、私たちを闇から救い出し、解き放ってくださるのです。
主の眼差しを受けて、自分たちの高ぶる目ではなく、心の目で主の愛に応えて生きていけたらと願います。