10月14日 2007年秋の伝道礼拝 第1回
抱きしめる愛  
小海 基
神は子どもの泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに来ていった。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。紙はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」
                          (創世記21:17〜21

ところが、女は答えていった。
「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」
そこで、イエスは言われた。

「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

                    (マルコによる福音書7:24〜30)

<メッセージ>
 私たちのキリスト教の特色は、これまでヨハネの手紙1の4章16節「神は愛です」という言葉から、「愛」であると答える人が多かったのです。しかし9.11テロ以来、キリスト教など一神教は、排他的で厳しく、愛とは正反対だと言う人も多くなってきました。
キリスト教はこのように、「愛」の宗教であると言われる反面、排他的であるとも言われます。聖書の愛とは何なのでしょうか。


このほど地球環境保全活動の功績でノーベル平和賞を受賞したゴア前アメリカ副大統領は、インタビューの中でアフリカの格言を引用して、「急ぐなら一人で行け、遠くに行くなら一緒に行け」と述べていました。
この言葉は、キリスト教の愛をよく説明しています。それはこの言葉が一神教の毅然とした厳しさ、神が示された真実の道ならば周りがどうあれ、たった一人でも神への服従の道として歩んで行くという聖書の信仰を表しているからです。
アブラハムもモーセもエレミアも、皆そうでした。しかしキリスト教は、独善的で、排他的で、狭量ではありません。それは遠くのものを周りの人と一緒に目指しているからです。
「急ぐなら一人で行け、遠くに行くなら一緒に行け」。それをよく表す印象的な箇所が創世記のアブラハムの物語で、す。彼は75歳という高齢で神の示されるまま、約束の地に出発した人でした。忠実に従うアブラハムに神は、「あなたには、空の星の数、海の砂粒のように多くの子孫を与える」と約束されました。 
その時、アブラハムには妻サラとの間に子供がなく、エジプト人でサラの女奴隷ハガルとの間にイシュマエル(「神は必ず引き受けて下さる」の意)を与えられていました。
しかしサラに奇跡が起こり、アブラハムが百歳の時に息子イサクが生まれます。そのためイサクとイシュマエルとの関係を恐れたサラが、ハガルとイシュマエルを砂漠に追い出します。やがて2人は行き詰ってしまう。
しかし神は、ハガルと子供の泣く声に耳を傾けられ、「ハガルよ、どうしたのか、恐れることはない。行って、イシュマエルを抱きしめなさい。私は必ずあの子を大いなる国民とする」と、アブラハムと同じ祝福を与えられたのです。そしてこの言葉通り、私達はイシュマエルの子孫(現在のイスラムの人々と言われている)が大いなる国民とされているのを世界の中で見るのであります。
ここで神がハガルに求めたのは、「抱きしめなさい」ということでした。聖書が語る愛は抽象的な言葉ではなく、もっと肉体的なものです。
私たちはそのことを聖餐式において、パンとぶどう酒を味わうことで経験します。それが十字架の愛なのです。


マルコによる福音書7章のシリア・フェニキアの女性の話も、女性が異邦人であり、ユダヤ人でないため、多数派のユダヤ人の救いが先であると最初は断られます。しかし女性の信仰によって救いがもたらされたことが述べられています。
実のところ、私達も少数派であり、シリア・フェニキアの女であり、ハガルであり、イシュマエルなのです。しかし、そういう私達にも、神は抱きしめるような愛を届けて下さっているのです。
このように私達に神の愛が届いていることを伝えるために、教会は今日も礼拝を守り、聖書を読んでいます。神の愛が実は私達に届いている、抱きしめるように、私達を包んでいるということを、私達はしっかりと聞いていきたいと思います。