
|
 |

7月8日 |
「主は士師を立てられた」 |
小海 基 |
主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。…「この民はわたしが先祖命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだ時に残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わない事にする。…」…そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるためにほかならなかった。
(士師記 第2章18、20〜21節、第3章2節)
|
<メッセージ>
7月から士師記の講解説教を開始しました。1〜2章は総論のような所です。士師とは裁判官あるいは裁きづかさと言う意味の言葉で、この書名は中国語訳聖書から採られたといわれています。民間の一代限りのリーダーたちが12人登場し、それぞれ40年の倍数の年月というのですから少々ワンパターンのきらいがありますが、イスラエルの危機を救ったという記録です。エジプトという「奴隷の家」を出て、導かれた約束の地では二度とファラオも王もごめんだ、十二部族が平等に、モーセとヨシュアの教えと律法を守りながら暮らしていくのだと燃えていた時代の記録です。
しかし人間は悲しい罪深い存在です。40年もすれば志を忘れてしまう。先住民たちの偶像がはびこり出し、不正が満ち、諸国の民からの侵略を招いてしまう。「圧迫し迫害する者を前にしてうめく」声に主なる神は耳を傾けられ、哀れに思い、士師を立て平和が戻ってくる。そして40年かその倍数平和が続くけれど、再び志を忘れ…、とこういったことが12回繰り返される物語です。反省しても反省しても、なんとうんざりするくらい同じことを私たち人間は繰り返す事かということを突きつけられます。今ちょうど国政選挙の時期にかかってきました。平和を誓った60年前の志を、「戦後レジームからの転換」と称して投げ捨て、平和憲法にまで手をかける所まで来ています。そういう意味では士師記の繰り返しの歴史は現代の私たちにも問い、迫ってくるものがあります。
しかしそのもう一方で、そうしたな避けない、罪と過ちの繰り返しの歴史の根底にも、神様の摂理が働いていることをこの士師記の冒頭は語るのです。エジプトのファラオの心をかたくなにし、なかなか出エジプトをさせなかった主は、ここでも先住民を意味を持って残されたのだと士師記は語るのです。「イスラエルを試」(22節)すためであり、「戦いを学ばせるため」(3章2節)にあえて主なる神はそうされたのだというのです。
|
|