なぜこのような苦しみが……
人生には色々なことが起こります。私の知人で親から信仰を受け継ぎ、とても誠実で教会活動にも熱心であった方が、体調を崩して入院し、わずか十日後に膵臓がんで亡くなりました。体調を崩す前は普通の生活をされていただけに、まさに突然の死でした。
私をはじめ、その方が属する教会員の方々、皆誰しもが驚き、大きなショックを受けました。しかし、このようなことは、この社会では毎日起こる出来事でもあります。
それが自分の身近なところで起こると、「どうしてこのようなことになったんだ」とか、「なぜこのような苦しみを味わわなくてはいけないのか」という問いが襲ってきます。
「義人がなぜ苦しむのか」がヨブ記のテーマ
ヨブ記のテーマを一言で言うと「義人は何故に苦しまなければならないか」ということです。ヨブ記は苦しみや困難はどこから来るのか、その時人間は、どう対応するのか、また神の義や信仰とは何なのかということを我々に語りかけています。
ヨブという人について聖書には「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」とあります。
ヨブのように「無垢」と呼ばれている人が創世記に三人います。一人はノア、二人目はアブラハム、そして三人目がヤコブです。ノアとヨブは「無垢な人」、アブラハムは「全き者」、ヤコブについては「穏やかな人」という言葉が使われています。「無垢」、「全き」、「穏やか」の元の言葉は皆同じなのです。
それでは、ヨブを含めたこの四人が生涯「純真で完全無欠で正直で誠実、穏やか」であったかというと必ずしもそうではない。
聖書をよく読んでみれば、彼らのドロドロした人間性が述べられているのです。ですから私は、単純に人に対して「無垢な人になろう」などとは言いません。
「無垢」とは辞書によれば、「煩悩を離れて汚れのないこと」とあります。仏教でいうなら我々は「煩悩、すなわち心身を煩わし悩ませる妄念のかたまり」、キリスト教でいえば「罪にまみれている者」なのです。
主が与え、主が奪われた
さて、ヨブの苦しみ、苦難は「運命」とか「宿命」ではありません。それは神様がヨブやその家族の周囲に「垣根を立て巡らして守ってくださっていた」から幸せであったのであり、その垣根が取り外された途端に苦しみや不幸が襲ってきたのです。実は苦しみ、不幸の原因はここにあるのです。冒頭に述べた知人の死も、神様が「垣根」をはずしたのです。
なぜと問うても私たち人間にはわかりません。それは、ヨブが言うように「主が与え、主が奪われたのだ」ということ、それ以外は考えられないのです。
渡辺和子さんの詩「咲く」
渡辺和子著『心に愛がなければ』と言う本のなかに、次のような詩があります。
神が置いて下さったところで咲きなさい。仕方がないと諦めてではなく、『咲く』のです。
『咲く』ということは、自分が幸せに生き、他人を幸せにするということです。
『咲く』ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを示して、生きるということなのです。
「神が私をここに置いて下さった、それはすばらしいことであり、ありがたいことだ」とあなたのすべてが語っていることなのです。
『咲く』ということは、他の人の求めに喜んで応じ、自分にとって、ありがたくない人にも決して嫌な顔、退屈な態度を見せないで生きることなのです。(以上引用)。
人生を花に例えるなら、どういう形で人生の花を咲かせたら良いのか、そのことが難しいと思うのです。
主体的に生きることが
生きる喜びを約束する
神谷美恵子さんという精神科医がいました。彼女は生きることについて「穏やかに流れるような人生ではなく、そこに抵抗感があった方が生存・充実感を感じる」と言って、主体的に生きることの大切さを述べています。主体的に生きるとは、「自ら進んで、身を挺して何かに仕えることで、そのことによって責任と冒険が伴う。あえて責任を負い、冒険に乗り出すことこそ、新鮮な生きる喜びを約束してくれる」。
(神谷美恵子著『人間をみつめて』)
垣根をはずされて主体的に生きることは苦しいし切ないし、困難を伴います。しかし、そこにこそ、まさに自分の人生が問われているのです。そこで生きることは、また生存充実感を味わうことにほかならないのです。
「無垢」な生き方とは
私たちは人に傷を与え、また人から傷つけられ、罪や煩悩にまみれ、垢や泥にまみれて、わめき、うめき、スッタモンダしながら人生を生きています。
それだけに神様が置いて下さったところで自分自身の人生の花を咲かせて生きる。強い風に吹かれて倒れそうだけれども倒れないで生きていくことが、生存・充実感を持ちつつ、主体的に生きることなのです。
生きる中で「神様、なぜ、どうして」と問うてもよい。時にはグチ、不平が出てくることもあってよい。そうしながらでも、あのヨブのように主を仰ぎ見て悔い改めて生きていく信仰、そこだけはしっかり押さえておく。
皆さん一人ひとりがそういう人生の花を咲かせる場が神様によって与えられているのです。人生をスッタモンダしながら、人生の花を咲かせて生きるキリスト者でありたいし、そのように生きたいと思うのです。
このような生き方が出来る人が「無垢」な人、ということが出来るのではないでしょうか。