5月20日
無垢な人になろう ―ヨブ ―  新松戸幸谷教会 
吉田好里牧師
ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。

七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。

ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。

主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。

すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。


                             (ヨブ記1:1〜22
<メッセージ>

なぜこのような苦しみが……

 

人生には色々なことが起こります。私の知人で親から信仰を受け継ぎ、とても誠実で教会活動にも熱心であった方が、体調を崩して入院し、わずか十日後に膵臓がんで亡くなりました。体調を崩す前は普通の生活をされていただけに、まさに突然の死でした。 

私をはじめ、その方が属する教会員の方々、皆誰しもが驚き、大きなショックを受けました。しかし、このようなことは、この社会では毎日起こる出来事でもあります。

それが自分の身近なところで起こると、「どうしてこのようなことになったんだ」とか、「なぜこのような苦しみを味わわなくてはいけないのか」という問いが襲ってきます。

 

「義人がなぜ苦しむのか」がヨブ記のテーマ

 

ヨブ記のテーマを一言で言うと「義人は何故に苦しまなければならないか」ということです。ヨブ記は苦しみや困難はどこから来るのか、その時人間は、どう対応するのか、また神の義や信仰とは何なのかということを我々に語りかけています。

ヨブという人について聖書には「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」とあります。

ヨブのように「無垢」と呼ばれている人が創世記に三人います。一人はノア、二人目はアブラハム、そして三人目がヤコブです。ノアとヨブは「無垢な人」、アブラハムは「全き者」、ヤコブについては「穏やかな人」という言葉が使われています。「無垢」、「全き」、「穏やか」の元の言葉は皆同じなのです。

それでは、ヨブを含めたこの四人が生涯「純真で完全無欠で正直で誠実、穏やか」であったかというと必ずしもそうではない。

聖書をよく読んでみれば、彼らのドロドロした人間性が述べられているのです。ですから私は、単純に人に対して「無垢な人になろう」などとは言いません。

「無垢」とは辞書によれば、「煩悩を離れて汚れのないこと」とあります。仏教でいうなら我々は「煩悩、すなわち心身を煩わし悩ませる妄念のかたまり」、キリスト教でいえば「罪にまみれている者」なのです。

 

主が与え、主が奪われた

 

さて、ヨブの苦しみ、苦難は「運命」とか「宿命」ではありません。それは神様がヨブやその家族の周囲に「垣根を立て巡らして守ってくださっていた」から幸せであったのであり、その垣根が取り外された途端に苦しみや不幸が襲ってきたのです。実は苦しみ、不幸の原因はここにあるのです。冒頭に述べた知人の死も、神様が「垣根」をはずしたのです。

なぜと問うても私たち人間にはわかりません。それは、ヨブが言うように「主が与え、主が奪われたのだ」ということ、それ以外は考えられないのです。

 

渡辺和子さんの詩「咲く」

 

渡辺和子著『心に愛がなければ』と言う本のなかに、次のような詩があります。

神が置いて下さったところで咲きなさい。仕方がないと諦めてではなく、『咲く』のです。

『咲く』ということは、自分が幸せに生き、他人を幸せにするということです。

『咲く』ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを示して、生きるということなのです。

「神が私をここに置いて下さった、それはすばらしいことであり、ありがたいことだ」とあなたのすべてが語っていることなのです。

『咲く』ということは、他の人の求めに喜んで応じ、自分にとって、ありがたくない人にも決して嫌な顔、退屈な態度を見せないで生きることなのです。(以上引用)。

人生を花に例えるなら、どういう形で人生の花を咲かせたら良いのか、そのことが難しいと思うのです。

 

主体的に生きることが

生きる喜びを約束する

 

神谷美恵子さんという精神科医がいました。彼女は生きることについて「穏やかに流れるような人生ではなく、そこに抵抗感があった方が生存・充実感を感じる」と言って、主体的に生きることの大切さを述べています。主体的に生きるとは、「自ら進んで、身を挺して何かに仕えることで、そのことによって責任と冒険が伴う。あえて責任を負い、冒険に乗り出すことこそ、新鮮な生きる喜びを約束してくれる」。

(神谷美恵子著『人間をみつめて』)

垣根をはずされて主体的に生きることは苦しいし切ないし、困難を伴います。しかし、そこにこそ、まさに自分の人生が問われているのです。そこで生きることは、また生存充実感を味わうことにほかならないのです。

 

「無垢」な生き方とは

 

私たちは人に傷を与え、また人から傷つけられ、罪や煩悩にまみれ、垢や泥にまみれて、わめき、うめき、スッタモンダしながら人生を生きています。

それだけに神様が置いて下さったところで自分自身の人生の花を咲かせて生きる。強い風に吹かれて倒れそうだけれども倒れないで生きていくことが、生存・充実感を持ちつつ、主体的に生きることなのです。

生きる中で「神様、なぜ、どうして」と問うてもよい。時にはグチ、不平が出てくることもあってよい。そうしながらでも、あのヨブのように主を仰ぎ見て悔い改めて生きていく信仰、そこだけはしっかり押さえておく。

皆さん一人ひとりがそういう人生の花を咲かせる場が神様によって与えられているのです。人生をスッタモンダしながら、人生の花を咲かせて生きるキリスト者でありたいし、そのように生きたいと思うのです。

このような生き方が出来る人が「無垢」な人、ということが出来るのではないでしょうか。