5月13日
ザアカイ―「無垢」と名づけられて  
龍口 奈里子
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

                           (ルカによる福音書19:1-10
<メッセージ>

主人公の名前「ザアカイ」の本来の意味は、義(ただ)しい人、無垢な人という意味です。しかし彼はどうみても、無垢な人とは言えず、頭の中は、いつもお金のことで一杯でした。

彼は徴税人のリーダーでした。この職業は、輸出入品の通関税などをローマ以外のユダヤ人から取り立てる仕事で、不正の利益を自分たちの懐に入れたりもしていました。

このザアカイが、うわさの高いイエスがエリコの町に来ることを知り、顔だけでも見たいと思いました。しかし、町は人で一杯です。そこで木に登ってイエスを見ようと待ち構えていました。ところが思いもよらない事が起きました。イエス本人がその木の下に来られた時、立ち止まり、上を見上げられて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」と言われたのでした。

「罪人」「犯罪人」と呼ばれていた嫌われ者のザアカイは驚きました。これを見た沿道の人々は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と陰口を言いました。

しかし、このザアカイこそ、エリコの町にいるすべての失われた者のうち、もっとも失われた者であることを見抜かれて、イエスは彼に歩み寄り、ザアカイの名を親しく呼ばれました。そそて「今日、あなたの家に泊まらなければならない」とだけ言われました。たとえ彼が自分の名に恥じるような生き方をしていようが、無条件に受け入れて愛してくださったのでした。このザアカイの話には、私たちがキリスト教に出会うことの一番本質的な事が描かれています。

ザアカイは急いで降りて来ました。自分を人より高く見せようと、背伸びし強がる必要はなく、背の低いままの、少しも「無垢」でない姿で、主イエスの前に立つのでした。そして、主は彼の家に泊まられました。

その後のザアカイの人生は大きく変化しています。彼は貧しい人たちに財産の半分を施します。改めることの出来なかった不正な仕事を止め、罪を償うために四倍にして返すと言いました。彼は、イエスと出会い、受け入れられることによって、その簡単でない道を選んだのでした。神様の大きな愛に抱かれて、ザアカイは名前の通り「無垢」に生きようと思い直すのです。

主イエスはザアカイの家に泊った日、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。ザアカイの約束はまだ何も実行されていないにもかかわらずです。彼はただ、主イエスを家に迎え入れただけでした。しかし、「今日」が救いの日だと言われたのでした。主イエスを受け入れること、それが救いなのです。

この世の基準では、選ばれるのには何らかの価値があるはずです。しかし、神様は私たちが立派だから選ばれるのではなく、愚かで弱く、取るに足りない者ゆえ選ばれるのです。

いろいろな束縛から解放されたこのザアカイの救いの喜びは、私たちにも向けられています。ザアカイのように、「罪深い」者の一人である私たちですが、主イエスによって無償で「無垢」とされるのです。主は私たち一人ひとりの名を呼ばれ、それぞれのところへ来てくださっています。高みの上ろうとするのではなく、低きに下りて来てくださったインマヌエルの神、主イエスのところまで、私たちは「降りる」ことにより、主を心のうちに迎え入れることが出来ます。

神様の選びにあずかったこの大きな喜びを、神様のため、人のために豊かに捧げましょう。そのような豊かな人生を歩んで行きたいと思います。