<メッセージ>
イースターおめでとうございます。主イエス・キリストが死に打ち勝ち復活されたということは、私たちが主が備えられた新しい生命に生きる事へと招かれている事を意味します。それはどんな生き方なのでしょうか。
十字架に主がつかれる直前、後に「洗足の木曜日」と呼ばれるようになる晩、主イエスは「互いに足を洗い合」うように弟子たちに命じられました。自ら弟子一人一人の足を洗いながら言われたのです。この晩の出来事は、後に「聖餐」と呼ばれる事になった最後の晩餐も含めて、主の十字架の意味を示し、復活後の新しい生命を先取りする生き方に深く関わるのです。
西東京教区のタイ・スタディーツァーに参加して、向こうのハンセン病施設で働く一人の独身の看護師さんとお会いしました。A看護師です。日本の好善社から派遣された方です。
こうした医療関係の派遣というのは実はとても難しく、国境を越えて看護士の免許が認められるというケースはなかなかありません。A看護師の場合もそうで、彼女は医療行為に従事する事はできず、ただひたすら元ハンセン病患者の人たちの足を洗う毎日なのだそうです。
初めはそのことはおそらく彼女にとって一種の挫折であったに違いありません。海を越え、単身苦労してやってきたのはこんなささやかな事の為だったのかと思ったことでしょう。医療先進国の日本での豊富な看護経験を活かす事の出来ないもどかしさを感じられた事でしょう。まるで追い討ちをかけるように、タイに来てすぐにご自身が氷が原因と見られる激しい食中毒を患って、生死の境をさ迷う事になってしまったA看護師の当時の思いを、私たちも推し量ることができます。
しかしやがて彼女はその「洗足」に全く新しい重要な意味を見出すようになります。ハンセン病は良い薬が出来て現代では完治する病気です。ただ完治するといっても神経が麻痺してしまうという後遺症が残ります。この後遺症が実は怖いのです。生活の中で、熱湯を知らずにかけてしまう、痛みを感じないので怪我をどんどん悪化させてしまう…。そうやって元患者は足先、指先、身体の先端部分を失っていくのです。Aさんが医療行為こそ出来ないのですが、ただひたすら丁寧に元ハンセン病患者の人たちの足を洗い続けていることは、どんな治療行為にも優って、感染症を防ぐ事に半生を捧げていることになっているのです。
そうして何年もが過ぎました。どうでしょう。あの大仏教国のタイのハンセン病のコロニーでひたすら「洗足」を続けるA看護師を尊敬し、少しずつ確かにキリスト教が広がっているのです。まるで死んで実を結ぶ「一粒の麦」のような話だと思いました。驚異の念を覚えました。復活の主から始まった「新しい生命」が確かに輝き出ているのを確かにこの目で見たのです。
タイのハンセン病コロニーは日本のように社会に対して閉鎖型ではありませんでした。そのためハンセン病が克服された現在は、元患者の家族を中心にして、少しずつ新しい集落へと生まれ変わりつつあります。これまでのタイでの伝道と言えば、あまりにも圧倒的な仏教の影響の中で、私たちの西東京教区と関係深い山地少数民族のカレン族のように、村ごと、集落ごとという形がほとんどでした。総人口に占めるキリスト教の割合は日本とほぼ同じ1%台です。
しかしこのA看護師の働きは全く新しいものです。そもそも伝道目的ではない。文明を餌にするわけでもない。ただひたすら足を洗う。まだまだ裸足で暮らすタイの社会でそれがどんなに徒労に満ちた行為であるかは誰もが知っています。しかし他のどんな事にも増して主イエス・キリストの「新しい生命」の輝きを説得力を持って伝えているのです。托鉢の修行僧を尊敬する社会で比重を持つのです。
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