<メッセージ>
今年の「灰の水曜日」の聖書個所として教団の聖書日課が指定しているのが、マルコによる福音書代2章13〜17節の「アルファイの子レビを弟子に招く」記事です。「アルファイの子レビ」などという名の弟子が12弟子の中にいたのかと思われる方もおられるかもしれません。これは並行記事のマタイによる福音書の9章9節をお読みになれば分かりますように徴税人であったマタイです。
この記事については皆さんの中にもご存知の方もおられるでしょう、イタリアの有名な画家カラヴァッジョが、1599〜1600年頃というのですからちょうど日本では関が原の天下分け目の決戦をしている頃に、ローマの聖ルィージ・ディ・フランチューズィ聖堂のために描いた絵があります。カラヴァッジョはそれこそ殺人を犯したり、若死にしたり、本人は多分同性愛の嗜好を持つ人でいつもモデルが同一人物…といった具合に、大変に数奇な波乱万丈の生涯を送った画家です。何年か前に映画にもなりました。それだけに「罪人の招き」というこの絵のテーマは自分自身のアイデンティティーと深く交わる所があったのだと思います。大変に迫力のある絵になっています。
暗い部屋の真ん中に髭をたくわえた徴税人マタイ(アルファイの子レビ)が仲間と腰掛けています。テーブルの上にはおそらく賭け事の最中であったのでしょう。銀貨が詰まれています。そこへ突然ドアが開いて外の光が差し込んでいます。暗い部屋に光が差し込んできている。この絵には光の先におそらく立っている、ドアの外にいてマタイを招いているイエス・キリスト御自身は描かれないのです。おそらく主イエスは「マタイはどこにいる」と訊ねているのでしょう。部屋の中にいる複数の仲間たちが「あいつですよ」とマタイを指差しています。マタイは「何事が起こったのか」と怪訝そうに光の先のキリストを見つめています。「訊ねているのは本当に俺なのか」と不思議そうな顔で自身を指差しています。光と闇の見事な対比です。本来動きの無いはずの絵なのに、その瞬間が強烈に切り取られています。
今日の「灰の水曜日」からレント(受難節)が始まります。復活の主をお迎えする私たちはその一番初めに悔い改めの祈りを置くのです。それはこのカラヴァッジョの絵と欲にています。まさに一方的にキリストの招きが先行して告げられるのです。強烈な光が一直線に差し込んでくる。瞬時に自分の抱えていた暗闇がはっきりと認識される。そんな出来事です。
マタイ(アルファイの子レビ)はおそらく徴税人として本当に悪い事を積み重ねてきたに違いありません。今日の箇所には12弟子として従ってから、彼こそが主や主の弟子集団にとってつまずきの原因であるとしばしば批判されていた事が出てきます。ファリサイ派の律法学者が「どうして彼(イエス)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、弟子たちを詰問したというのです。自分が弟子としている事で先生や他の弟子たちが批判されてしまう。自分という存在が自分の先生や仲間たちの顔に泥を塗ってしまっている。それはマタイにとってさぞかし居心地の悪い事であったに違いありません。しかし主イエス・キリストから差し込んでくる光は、そんな懸念を吹き飛ばしてしまうほど強烈です。
それはこの物語を読む私たちの暗闇にもさしてくる問いかけの光でもあります。「どうして主イエスはこのわたしのような罪人を招き、更に十字架にお架かりになるまでして救われたのか」。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。この招きの光の中で、私たちは主に従い、主の十字架の死に共にあずかり、主の復活に共にあずかるのです。
|