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10月29日礼拝説教 |
「「とりなし手として生きる」 |
小海 基
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「主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。」
(ヨブ記42:7〜11) |
<メッセージ>
この秋の伝道月間は罪の告白と執り成しをテーマとしました。罪赦された罪人であるからこそ私達の罪を見つめて、イエス・キリストの赦しの大きさを心に刻んで生かされていく、そして隣人の執り成し手として生きていく、そういう信仰が聖書の促す信仰です。 日本キリスト教団第三五回総会で新しい式文が発表され、二つの大きな改訂がなされました。私達荻窪教会が先取りをして行ったことです。一つは礼拝に小項目をつけるということ、もう一つは罪の告白と赦し、執り成しの祈りを礼拝の中に設けるというものです。今日は執り成しに生きる生活について、「ヨブ記」を通して聖書から聴きましょう。「ヨブ記」というのは登場人物が全て外人です。つまりこれはユダヤ人だけにしか通じない特殊な話ではなくて、世界中の人、異邦人も含めて普遍的な問題としてこの書物は書かれているのです。
ヨブは人一倍信仰厚い人でしたが、一瞬のうちに財産も家族も失ってしまいます。更にひどい皮膚病に罹って誠に惨めな姿になってしまいました。そのヨブの姿を見て、何か悪いことをしたからではないかと、妻や七日七晩共に泣いてくれたはずの友人さえもが、ヨブを責め最終的には決裂してしまいます。今日読んだ「ヨブ記」の結びでは、ヨブは財産を回復され子供にも恵まれ長生きもして幸せな生涯でしたと結ばれます。それについて作家の遠藤周作は、それは何の解決にもなっていない、ナンセンスだと書いています。この部分は聖書の中で一番出来の悪い付け足しだという旧約学者もいます。しかしその一方で私はヨブにとって肝心要の所を神様は配慮して下さったのだ、聖書というのはやはり深いなあとも思うのです。
ヨブの一番の悲劇は妻とも友人とも決裂してただ一人孤独な老人として孤立してしまったことです。そのヨブに神様はつむじ風の中から現れ、執り成しの祈りをしなさいと命じられたのです。ヨブを正しいとしたのだから、一つの大きな役目を負いなさい。あなたは三人の友人の執り成し手として立つのだと、ヨブに提案をするのです。ヨブが全く新しい生き方が出来るとするなら、友人達を赦して下さいと神様に一生懸命祈ることから始めるしかないと神様は提案したのです。ヨブが勝者、友人が敗者というのでは、しこりが残ります。ヨブが友人の執り成し手となるからこそ関係が回復されるのです。私達も同じです。あなたは義とされたんだ、だからあなたは執り成し手として生き、もう一度友人達と、連れあい達と豊かな生活を再び送るんだと、聖書は語るのです。
塚口教会山崎英穂牧師は、阪神淡路大震災七周年の説教の中で、「なぜ」という問いが被災地には渦巻いていると語りました。なぜ私だけが生き残っているのか。しかしイエス・キリストが「なぜ」と問いながら十字架にかかって下さったことで、私達の「なぜ」は絶望へ向かうのではなく、失われた関係を回復し、互いの心をつなぐ希望への問いとして、震災を絶対忘れることなく問い続けながら発する「なぜ」へと変わっていくのだ、というのです。
なぜ私は生き残っているのか。それは執り成し手として生きる者として残されているのです。キリスト者は礼拝の中でイエス・キリストの救いという事実に触れて一度は死に、そして生き返らされたのです。生き残ることのできた私達が、礼拝堂を後にするときは、取り成し手として生きていく日々なのだと、私達は心に刻んで行かなくてはならないのです。
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