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10月22日礼拝説教 |
「罪の悔い改めと告白」 |
龍口奈里子
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「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカによる福音書18:9〜14)」 |
<メッセージ>
聖書には対照的な二人が登場する箇所が多くあります。主イエスの「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ話も、対照的な二人が登場します。 主イエスは、ファリサイ派の人たちとは、ことあるごとに論じ合い敵対関係にありました。一方、徴税人とは彼らの家に上がって食事をされるなど親しい関係にあったことが福音書に記されています。 ところが、当時のユダヤの社会では、ファリサイ派の人たちは尊敬を受け、徴税人は人々に軽蔑され、社会の憎まれ者でした。なぜなら、徴税人という職業は支配国ローマに納める税金を、同胞ユダヤ人から回収していたからです。また、ユダヤ人が重んじるべき律法を守ることにルーズな人たちでもありました。しかし、もう一方のファリサイ派の人は、律法をきちんと守り、誰からも尊敬されていました。 しかし、この二人の祈りの物語の最後に、主イエスが義とされたのは徴税人であり、神に祝福されたのは、ファリサイ派の人でなく、徴税人であったというのです。 ファリサイ派の人は、「わたしは奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています」と、自分の生活態度はパーフェクトだと祈ります。また、「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈っています。ここには、自分自身を誇ると同時に、他者への蔑視があります。自分の優れているプラス部分を「わたしは」「わたしは」と挙げ連ね、他と比べています。主イエスは、このファリサイ派の人の祈りを義としませんでした。祈りとは、神様の前に自分をむなしくして祈ることだからです。祈りとは、自らを悔い改めるその告白であり、賛美であるからです。
ファリサイ派の人の横で、徴税人は、ただ一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ります。その姿は遠くに立って、目を天に向けようともせず、胸を打ち続けるだけでした。彼にとって、これまで数々の不正を行い、私腹を肥やしてきたことは罪でも何でもなく、ただ日常の行為としてだけであったかもしれません。しかし、彼は神殿に来て、自分の罪の深さに気づき、それを悔いながら、ただ神に憐れみを乞うのでした。神の前に出て、「ごめんなさい、どうぞ赦してください」というのが精一杯だったのでした。自分の罪に気づき、「悔い改め」、告白する時、もし神の赦しを信じるならば、その人は確かに変えられていくのです。神様は必ず、神の前に自分の罪を告白し「神様、わたしを憐れんでください」と祈る者の祈りをお聞きになる方です。そして、罪を赦してくださる方です。
主イエスが十字架にかかって死んでくださった、その一点で、私たちがどのような悲しみや重荷を負っていようとも、共に神様を見つめ、神様に祈ることが赦されているのです。罪を悔い改め、祈ることは誰にもできることです。主の前では、力ある者も力ない者も、主人も奴隷も、大人も子どもも、みな等しく立っているのです。そして、全ての者がこのひとつの言葉に心を合わせ祈ることができるのです。「神様、罪人の私を赦してください。憐れんでください。」
この祈りを続けていく中で私たちは、神の前に等しく立ち、神の前では罪人であり何も誇るものがないことを知ります。神様に罪を赦されて生きる事の感謝と喜びへと、誰もがひとしく招かれていることを覚えたいと思います。 |
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