10月15日礼拝説教
私たちが心を乱すこと 下谷教会牧師 
辻  順子先生
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
                  (ルカによる福音書10:38-42

<メッセージ>
マルタに見る二つの崩れ
 私たちの主観は、とてもこわいものです。それは自分中心でしか、ものが見えないからです。マルタとマリアの聖書のお話も、まさにそういう問題が扱われています。イエス様がある村に入られてマルタは家に迎え入れました。マルタはイエス様がどういう方か知っていたと思われます。一方、妹のマリアについて聖書では言及されていませんが、イエス様とは初対面であったかもしれません。イエス様の足もとに座ってお話に聴き入っているマリアの姿を見たマルタは、イエス様のもてなしに忙しくて心を奪われ、イエス様に「妹に手伝うように言って下さい」と言うのです。ここに私たちはマルタに「二つの崩れ」があることに気づきます。
 一つは姉妹の関係なら気安く言えるはずなのに、なぜ妹に直接言わないのか、ということ。もう一つは「イエス様から妹に言って下さい」と頼んでいること。これは、イエス様を自分の味方につけて自分の考えに合わせて妹を自分に従わせて下さいという間違った姿勢なのです。日本人はよく神社に行って「○○になりますように」と祈ります。この姿勢、考え方は、「私にとって良いことはこれだと私が決めました。それに従って神様、私にこのことを起こしてください」というお願いなのです。いわゆるご利益(ごりやく)宗教です。神様を自分の支配下に置くという考え方なのです。

神様は異なった賜物を一人一人に与えられる
聖書の「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」という部分を、ある英語の聖書では「妹は自分を見捨てています。これでいいのですか」と訳しています。神様は人間すべてに同じ役割を与えることはなさっていないのです。
 時々「世界中の人が牧師だったら牧師はいらないよね」ということが牧師仲間で話題になります。パウロは一人ひとりが与えられた賜物によっていろいろな役割が与えられていると言います。でも、皆が自分に与えられたことだけを賜物のように思いたがる傾向があります。

神様と自分とを結ぶ縦糸
 教会でよく経験することですが、何か新しいことをしようとする時、高齢の方々は若い世代が始めようとすることに対して、自分たちの価値観が否定されるように受け止めたり、他の教会ではどうしているのか、などと議論したりします。確かに、他人あるいは他の教会と違うことを新たにしようとする時、心配になるものです。しかしそういう心配というのは神様が背負って下さるのです。

 マルタは心を乱しています。他人(ひと)を見てなぜ助けてくれないのか、同じ役割をしてくれないのかと不平を言います。そういう労苦はイエス様が担ってくださいます。私たちはただ、イエス様のみを見上げていくべきです。それが縦糸です。そういう神様と自分との関係の縦糸が見えてくると、他の人と神様をつなぐ縦糸も見えてきます。
  東京神学大学の学長をされた故・松永希久夫先生が『歴史の中のイエス像』という書物の中で十戒を訳しておられます。「隣人を貪ってはならない」は「もしあなたが、あなたの神である私を愛するならば、私を愛している隣人から盗んだりむさぼったりしないであろう」と訳されています。私たちはその感覚を忘れています。神様は私を愛して下さっているのでアイムオーケー。しかし私の目から見たらあの人は神様から愛されていないからノットオーケー。違うのです。神様はここにおられる方々全員ばかりでなく、イエス様を知らない人々、否定している人々のことも愛しておられるのです。私たちが親しみを持っている弟子の一人のペトロでさえ、イエスを三回否定したのです。しかしノットオーケーとはなさいませんでした。

罪人をも愛して下さる主
 日本には家族の中で自分一人だけクリスチャンというパターンがよくあります。私もかつてそうでした。家族に対して教会に来てくれないと不満を言ったり、CS教師は朝が早い、教会の奉仕は大変だなどと教会の不満を言ったこともあります。家族からは「あなたが嬉しそうな顔で教会に行くなら自分も行ってみるけど」などと言われたものです。
神様の前に立つ時、自分は神様の愛にふさわしいと言える人は一人もいません、皆罪人だからです。その罪人である私たちを神様は愛して下さっているのです。

大きな悔い改めの機会となった東神大の受験体験
 私が東京神学大学を受験したのは十四年前のことでした。すでに会社に辞表を出していたこともあり、「自分だけは絶対に合格させてください」と、神様に一生懸命祈りました。入試の部屋に入ったら、当然ですが、全員が祈っていました。その時思いました。神様が私の祈りをきいてくださるならば他の受験生の祈りもきいてくださるだろう、そうしたら、行われるのは神様のみ心だけだ。それなのに、神様のことを無視した祈りをした自分は不合格だろうなと考えたのでした。出身教会の牧師に連絡したところ、面接までは受けて来なさいと言われ、面接を受けた結果、不思議なことに合格を与えられたのでした。この体験は、私にとって大きな悔い改めでした。自分さえ良ければ、という祈りが打ち砕かれたのです。誰もがこのような自分勝手な祈りをすることがあると思います。でも、その時に思い出して下さい。「あなたが望む前から神様は教会にあなたを招いて下さっている」ことを。あなたが望むと望まざるとに関わらず、今持っている賜物をあなたに与えてくださったのは神様なのです。他の人に、あなたと異なった賜物を与えられたのも神様です。また、本当に自分が招かれているかどうか確信が持てない人は一つだけ覚えておいて下さい。
 「あなたが今この礼拝の場にいるのは、決して偶然ではないのです」。