8月27日礼拝説教
「神の国に入る」 龍口 奈里子

そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」                     (ルカによる福音書13章18−21節)

<メッセージ>
主イエスは「からし種」と「パン種」のたとえ話を通して「神の国」とはどのようなものかを教えておられます。この2つのたとえ話には共通点があります。
 ひとつは、「からし種」と「パン種」、そのどちらも、小さなものだということです。「からし種」は直径わずか1ミリ前後の小さな、小さな種です。去年、私はある方からこの種をもらい、職場の入り口のところにまきました。あんまり小さいので、いくつも地面に落としてしまったほどで、本当にこれが育つのかと半信半疑でしたが、それほど日がたたないうちに、成長していきました。あるとき見ると、雑草と一緒に刈られてしまって、残念ながら今はないのですが、「からし種」は本当に大きく育つようで、3−4メートルの高さに成長し、最後は鳥がやってきて、巣を作るほどまで大きくなるそうです。「パン種」も同じです。ここには「3サトンの粉」と書かれてますが、これは約40リットルの小麦粉の量です。この40リットルの粉で、およそ150人分以上のパンが焼けるのだそうです。しかしいくら小麦粉の量を増やしても、そこに「パン種」、イースト菌を混ぜてやらなければ、パンは膨らみません。その「パン種」の量は小麦粉に比べるとわずかなものですし、一緒に混ぜてしまって焼いてしまうと、どこにあるのかわからなくなります。
ここに共通していることは、小さな、「目にみえないようなもの」が、やがて大きく豊かなものを生み出すということでしょう。
 そ
してふたつめの共通点は、きわめて日常的な場面の、日常的な行為から、神の国が譬えられている点です。農民が種をまき、主婦がパンを焼く、誰でも経験する、日常の生活の中に、「神の国」の支配をみるのだということです。からし種もパン種も、見た目には小さなもので、あるかないかわからないほどのもので、それも、ダイヤモンドのように、地中奥深くに眠らせているようなお宝ではなく、普段の生活でだれでもがよく目にする、日常ありふれたものなのだと。神の国とはそういうものなのだと主イエスはいわれるのです。
 私たちは「神の国」の支配というと、とかく数や大きさを見ようとします。実際、当時のイスラエルの人々もそう思っていました。「神の国」とは、かつてのダビデやソロモンが築いたような大きな国家、国の繁栄だと。だから、人々は主イエスの到来に期待したのでした。このお方の出現によって、またかつてのようなイスラエルの繁栄が復活し、このお方によって、ローマの支配からも解放されるだろうと。それこそが彼らにとっての「神の国」の支配だったのでした。
 しかし世の中が急に変化することは一向にありませんでした。彼らの貧しさが豊かになることもなかったし、ローマの権力に打ち勝つような力を持つこともありませんでした。主イエスが人々に示された「神の国」とは、ただ、神様の祝福からもれてしまった人たちが祝福されていくという、そんな小さな出来事の中に、「神の国」の始まりがあるのだといわれたのでした。しかし、やがて、そこに空の鳥が巣を作るほどに大きな成長があることをここで同時にイエスは語られます。
 「空の鳥」は、異邦人の国々を表しています。22節以下の話は、神の国で行なわれる宴会の様子を示していますが、つまり大きく成長したからしの木である神の国には、東から西から、南から北から、たくさんの鳥たちが集まってくるだろう。そんな風に新しく神を知り、神を信じるようになった異邦の民が集まってくるのだというのです。そのように神の国は広がり、成長してゆくのです。 
 神の国をこのように木の成長にたとえるのは、今日読んだエゼキエル書の預言を思い起こさせます。エゼキエル書17章22節以下の預言は、神との契約を軽んじ、その戒めをないがしろにして歩んだイスラエルの裁きが下り、みなバビロンに連れて行かれるという、いわゆるバビロン捕囚を預言したものですが、いつまでも神なしでも生きて行けると思いこんでいる、イスラエルの高慢な姿が、ここでイスラエルの高い木にたとえられています。しかし、そういう木は主の裁きによって低くされ、また一方で、レバノン杉から取られた小さな梢、柔らかい若枝を、主はイスラエルの高い山に移し変えて、大きく成長させてくださる、そこにはあらゆる鳥が四方から招き入れられるだろうという預言です。
 この若枝の姿こそが救い主イエス・キリストにおいて始まった「神の国」の支配なのです。最初は小さく、低められていた若枝が、やがて枝をのばし、実を実らせ、うっそうとしたレバノン杉にまで成長し、大きなものとなる。そしてここに散らされた者も、まだキリストを知らないものも、集められるのです。 
 わたしたちも、しばしば、イスラエルの民のように、神の力を小さく、狭めて見てはいないでしょうか。ただ自分の力、自分の誇り、自分の自信だけに頼ろうとしてはいないでしょうか。そのような目に見えるものにではなく、目には見えない神の支配の確かさに、私たち、もう一度立ち返り、そこから生き始めよと、この「からしだね」と「パン種」のたとえ話も、エゼキエルの預言も私たちに教えてくれています。
 私たちの生きるこの世界は強い力がまかりとおり、小さなもの、弱い立場にある人がますます虐げられる社会です。神の支配など一体どこにあるのかと思います。しかし、主はすでにこの世にこられ、み言葉の種がまかれて、芽生え育っているという事実に目をむけたいと思います。信仰が決して無力でないことを信じて、神様の目に見えない大きな力を信じて、この週も歩んでまいりたいと思います。
 「からしだね一粒ほどの信仰があれば、山をも動かす事ができる」
 からしだね一粒の信仰、わずかなパン種のような信仰の中に秘められた神の力に信頼して、「みくによきたらせたまえ」と祈りつつ神の国の到来を待ち望みたいと思います。