8月6日礼拝説教
「戦争を食い物にする罪」 小海 基
イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。」(ヨシュア記7章1節)
<メッセージ>
今日は平和聖日です。戦争協力という形で誕生してしまった私たちの日本基督教団ですから、戦後は八月の第一聖日を「平和聖日」として定め、平和への決意を胸に刻む大切な礼拝として全国の千七百あまりの教会・伝道所が守り続けています。今年は小泉首相が内外の反対を振り切って「公約」を口実に靖国神社参拝を十五日に強行しようとしていますし、日本経済新聞がA級戦犯合祀に反対して昭和天皇が靖国神社参拝をやめるようになったという侍従メモをスクープした事に反発して火炎瓶が新聞社に投げ込まれる、〔更には15日には小泉首相の参拝にはっきりと反対を明言した加藤議員の山形の実家が右翼の男によって焼き討ちに遭い全焼という事件まで起きました〕、テロの未遂事件がアメリカやヨーロッパで続き、隣の国からはミサイルが飛んでくる…といった騒然とした雰囲気の中で敗戦後61年目の夏を私たちは迎えています。
 そんな日にとても考えさせる聖書の個所に私たちはさしかかりました。
 ヨルダン川を渡って最初の、そして最大の難関であったエリコの戦いを、指一本も動かすことなく勝利することができた出エジプトの民ですが、神様はこの戦いの戦利品を決して私利・私物化することなく全て神様への捧げ物とせよと命じられました。聖書の信仰からすれば、収穫物の初物、母の胎を開く最初の子どもは聖別してまず神様にお捧げするというのはごく自然な事です。エリコの戦いはヨルダン川を渡って最初の本格的な戦いでしたので、聖別して全てを神様に捧げるというのも、ヨシュアたちにとって当たり前の事でした。
 しかし戦利品を掠め盗った者がいたのです。それがアカンです。私はアカンの罪は「戦争を食い物にする罪」だと思います。 なるほどアカンに言わせればそれは僅かな物かもしれません。たった「一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板」(21節)を盗ったというに過ぎません。エリコの夥しい金銀財宝に比べれば僅かなものじゃないですか。ほんの出来心という程度のものじゃないですか。死をみって償わなければならない罪だというのですか。
 使徒言行録の5章にも同じような話が出てきます。アナニアとサフィラ夫妻の事件です。私はこちらは「信仰を食い物にする罪」の話だと思います。霊感商法のルーツです。
 アカンの掠め盗った物、アナニアとサフィラの誤魔化した量に眼を留めれば「僅か」なのかもしれませんが、これが人の死を自分の食い物にする、人の善意と信仰を食い物にする行為だとすると深刻な罪となります。

 敗戦後61年目のこの夏に私たちが直面している平和を脅かす不安の根底にある物は何なのでしょうか。それもまた「信仰を食い物にする罪」、「人の善意と信仰を食い物にする罪」、「アカンの罪」と同一線上にある罪ではないでしょうか。何かの利権のために戦争が企てられ、人の命が失われていき、テロの連鎖が始まっていく…、というものであるとするならば、それはなんと言う恥ずべき罪であることでしょうか。
 神様、私たちを「平和を実現する」者(マタイ5:9)としてください。