5月28日礼拝説教
神の不思議な御手に導かれて 青山学院女子短期大学教授 伊藤 勝啓 
だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
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ローマの信徒への手紙112224
<メッセージ>
1.聖句「真理はあなたたちを自由にする」との衝撃的出会い]
私の家族は祖父の代からギリシャ正教会のクリスチャンで、一九四〇年に生まれた私も第二次世界大戦が終わるまで、その教会に親に連れて行かれておりました.
戦後
、社会が混乱し、父の仕事が変わったりしたことなどもあり、その教会に足を運べなくなりました。その後、中学生の頃、友人の勧めで日本キリスト教会という長老派教会の家庭集会に行き始めました。
 そこで聖書の衝撃的な個所に出会いました。ヨハネ福音書八章三十二節のみ言葉「真理はあなた方に自由を得させるであろう」でした。この聖句に出会って以来、真理以外のものは私たちを自由にしないとの聖句の意味を考え始め、高校生になって自分の将来の仕事を考え始めた時にその聖句が自分の心の中に生きてきました。
 私自身子ども時代から病弱で、かかりつけの尊敬する医師と親しくしていたこともあり、将来の仕事として外科医を考えましたが、父が入院した際に病院で菌をもらって目の角膜に潰瘍ができてしまい、片目が殆ど見えなくなり医師をあきらめました。 
 次に外交官を考えた時期もありましたが、その時期を経て、教会と関係のある仕事を考え始めました。そして東京神学大学に入学いたしました。
 通っていた柏木教会の牧師が毎日曜日にマルコによる福音書の講解説教をされており、それを聞いているうちに、もやもやとしていたものが落ち、神学大学三年目ぐらいの時、牧師としての歩みを決心いたしました。
 それ以後、私はずっと教会と大学に関わってきております。そうした人生体験から、私は神様の御手は私たちが考えているよりも、もっともっと深いところで導いてくださっていることを知るようになりました。
2.異邦人伝道に情熱を傾けたパウロの必然性
 パウロも、実は始めから伝道者、使徒であったわけではありません。彼は落ち度がないユダヤ教徒で律法学者として将来を期待されていた人でしたが、彼はキリスト教徒に迫害の手を伸ばしていたのでした。
 そのパウロがある時突然、復活の主に出会って目が見えなくなる経験をします。そして彼は回心しますが、それから十四年間、テント職人として生活しながら、ユダヤ教徒からクリスチャンになることについて考え続け、ようやく伝道者として宣教に立つことができるようになりました。パウロは自分からクリスチャンになったのではなく、電撃のようなキリストとの出会いによって、自分の生涯のなかに神の慈しみと厳しさの両方を見ることが出来たのだと思います。
 十一章二十四節で、異邦人は接ぎ木されたもの、ユダヤ人はもともとの木という関係にたとえています。自分がユダヤ教徒としての立場からクリスチャンになぜさせられたのかを考え続けた結果、長い目で見たときに異教徒がクリスチャンになることによって、その異教徒からユダヤ人が教えられ、そしてそのユダヤ人はまた新しく神の元にクリスチャンになる、そういう遠大な見通しの中でパウロは自分の任務を発見しました。
 ですから彼は、ただ伝道者、異邦人の使徒になることを決めただけではなく、信仰に裏づけられた実践に当たるのです。そこに異邦人伝道に情熱を傾けていったパウロの必然性があるのです。
 パウロにとって宣教師とは、ただ職業としてではなく、ユダヤ人に対する非常に深い愛情が、そこにこもっていたということがわかります。
 彼は自分の生涯を振り返って、自分がユダヤ人として、また律法学者として立っていたならば、将来偉大な指導者になったことを自分で分かっていたはずですが、その道を捨てたのです。これは私たちが考える以上に大きなことです。そして自分の道を変えたということだけではなく、まったく別な方向に歩み始めることを意味しているのです。
3.復活の主を仰ぐことによって自由が得られる
 私たちの生涯を考える時に、私たちはクリスチャンとして一人立ちをし、この日本でその信仰を持ち続けるだけでなく、それを一人でも多くの人に伝え、分かち合えることができれば何と素晴らしいことかと思います。
 先ほど、私がかつてヨハネ福音書を読んで大きな衝撃を受けたと申しましたが、私たちが復活の主と出会い、クリスチャンになるということは、自由を得させて頂くことと深い関係があるのです。
 私がある地方での牧師時代に、町内会で神社のお祭りの寄付金問題に直面しました。従来は町内会費から寄付金が出される仕組みになっていました。私は新参者として町内会に出た時に発言しました。「神社のお祭りは年二回ですが、教会は毎週日曜日がお祭りです。それにも寄付を出して頂けますか?」と。会長さんは「困った」と言う顔をしていました。しばらくのやり取りのあと、私は寄付に反対ではないが、町内会費から出さないで個人個人で出すことにしては、との妥協案を出し、以後、町内会費からの寄付はなくなり、個人で出すことになりました。私も個人で寄付しました。これは私にとって大変良い経験でした。今まで当たり前と思っていたこに疑問符をつける自由を私たちクリスチャンは持っているのです。しかも少しのゆとりとユーモラスをもってこれまでの約束事から解放されて自由を得ることができるのです。
 パウロ自身も復活の主を仰ぐことによって、そういう自由を手に入れることができました。たとえ困難でも危険があっても、彼はその道を歩んだのです。私たちもまたこの日本にあって、この国、国民を愛し、そしてそこにキリストを伝えていくことに熱心でありたいと思いますし、また神様にあっての自由な生き方を人々に示すようなクリスチャンになりたいと願います。