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5月21日礼拝説教 |
「神の力強い御手の下で」 |
龍口 奈里子 |
「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」 (ペトロの手紙T5:5〜7)
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<メッセージ>
ペトロの手紙は信仰生活に伴う苦難や試練を多く語っている手紙です。また、その中にあって信仰者としてどのような道があるのかを説きます。
私たち一人一人には、神によって創られたこの世界に生きるとき、不安や苦悩や試練が襲います。しかし、この不安を人との関係や人間的な生活環境や、あるいは私たちの気持を変えてみたとしても、不安や苦難は一向に消えません。
自分の力で苦しみに耐える努力をしても、最後に残るのは空しさや虚無であり、そこから希望はうまれてはこないからだと手紙の著者は言います。 そうではなくて、その苦難を神の力強い御手の下で耐え忍んでごらんなさい、そうすれば苦難は私たちに益をもたらすばかりか神の栄光をあらわす喜びの機会となるのだといいます。でもどうしてそんなふうにこの著者は言いきれるのでしょうか。それは私たちのこの生が偶然に生まれてきたものではないからです。私たちは神の御手によって創造されたものだからなのです。だから、私たちは自分の力でがんばらなくても、私たちを創った神の力強い御手に身を委ねることによって、必ずそこに救いの道が開かれている、不条理だと思えるそこにこそ何らかの意味を神は持たせて、そこから新しい希望の道を備えてくださっていると語るのです。
詩編の詩人はいつも神に向かって喜びや悲しみをぶつけます。そしてそのことを詩にし、祈ります。詩編三一篇一六節に「わたしにふさわしいときに、御手をもって、追い迫る者、敵の手から助け出してください」とあります。この詩人は、自分がどんな状況に置かれても、いつも神様の御手の中に守られているという確信をもって、きっとこの詩を歌っているのでしょう。
しかしたとえそう信じていても、何もかもが自分に都合の良いように転ずるとは限りません。聖書はご都合主義の書物ではありませんから、私たちにとっては心地よくないことさえも、神から来るのだとはっきり言うのです。教会は、そのような神の御手の存在を信じて生きようと決意して洗礼を受け、キリスト者となった人たちが集まっているところです。私たちの教会にも幼い子どもたちからご高齢の方々まで多くの方がキリスト者としての生活をしています。どの人にも、一人一人異なった神様との出会い、そして信仰の証しというものがあると思います。
先日目にしたカトリックの神父さんの文章に、秋田の教会で受洗されたご高齢の方の『一度きりの人生を』と題した証しがありました。
およそ次のような内容です。「若いときは失敗しても人生はやり直しがきくものと考えていたが、老いを感じる今は人生が死によって限定されており、一度きりであると気づき、生きることを大切にしたいと願い、祈る心が持てるようになった。やり直しがきかず死をもって終わる人生が、すべて大いなる神の御手にあると信じ得たとき、生きることの感謝を知った。日々の不安に自分をごまかしている自分だからこそ、今を一生懸命生き抜く信仰をください」。神様の御手に導かれて、思い煩いをすべて主にお任せして毎日毎日を生きていく、そんな人生が日々過ごせるようにともに祈り、ともに主に出会っていけたらと願います。 |
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