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5月14日礼拝説教 |
「主の手が短いというのか」 |
小海 基 |
「民に告げなさい。明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。主の耳に達するほど、泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれないものか、エジプトでは幸せだったと訴えたから、主はあなたたちに肉をお与えになり、あなたたちは食べることができる。あなたたちがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。一か月に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。あなたたちは、あなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか、と泣き言を言ったからだ。」モーセは言った。「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか。」
主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(民数記11:18〜23)
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<メッセージ>
今回の伝道礼拝では主の御手という言葉をキーワードに構成しました。神様という絶対的な存在は、限られた存在に過ぎない私達の目に見えるような存在ではありませんから、肉体的に捉えることはできません。聖書には主なる神の御手によって支えられる、守られるという表現は山のように出てきますけれども、これは比喩的な表現です。しかし皆赤ちゃんとお母さんが触れ合っているくらい身近に、神様の御手によって守られてきた、そういうふうに信仰を持つ人は語ってきたのです。語ってきただけではなく、それを聞いている人も本当にそうだというふうに、響く言葉として聞いてきたのです。
実際の私達の人生は不確実で見通しもきかず、不安に充ち満ちています。ちょっとした試練に遭うと、神の御手などというふうには感じなくて、冷酷な運命や宿命みたいな流れに定められている、あるいは単なる偶然の連続というふうに考えてしまう人もいます。しかし聖書が語っているのは、あるいは私達が人生を振り返って実感として思うのは、そういう偶然の連続やがんじがらめの抜き差しならない鎖のような流れに流されていくというのではなく、その時には試練や重荷を理解出来なかったり、不条理のように思えたけれど、あとから振り返ってみると意味を持っていたのだ、神様が愛情を持って私の人生の中に置かれたひとつのことだったのだ、と振り返ることが許されているのです。
さらに喜ばしいことに、聖書はもうちょっと積極的に書いています。出エジプト記や申命記、エレミヤ記にしばしば出てくる言い方ですが、主は強い御手を伸ばされた。わざわざ私達の苦しみや試練のただ中に手を差し伸べてくださる方なのだと言うのです。 伝道礼拝第一回目の今日は主が手を伸ばされる話ではなくて、ちょうど逆の、主の手は短いのかと、問う言葉を読みました。ここであなたは主の手が短いというふうに本当に思っているのですか、と叱られるように問い返されている人はモーセです。私はモーセが問われているということが大事だと思います。モーセは、神様は本当にすごいと跪かずにはおられないような奇跡的なことを次から次へと目の当たりにしてきたイスラエルのリーダーです。そのリーダーでさえ神様の手は短いと思っているのか、というふうにもう一度問われてしまうのです。ですから、私達人間が自信を失ったり不安になったり、心細くなるときというのは、その前にどんなにたくさん神様の御手に守られているという経験をしていても、それが役に立たないものなのだということを、改めて教えられるような思いがします。
もう一カ所読んだ使徒言行録では、エルサレム神殿の前で物乞いをしていた足の不自由な男の人がペトロとヨハネによって癒され、使徒達が感謝の祈りの中で、主が御手を伸ばして、聖なる僕イエスの名によって主の業を行えるようにして下さいと祈ったことが記されています。足の不自由な男の人は、主の手は金銀が毎日与えられるというところで届いていると思っていました。しかしそうではなくて、神様の出来事が自分に起こって自分は立ち上がり神様を伝えるものに変えられていく、そこまで主の手が届いていたのだ、自分の人生を変えるように届いていたのだということに、ペトロとヨハネに出会って知らされたのです。
主の手は私達の内に届いている、それは私達の想像をはるかに超える形で私達の元に届いているのです。その主の手を今日も感じていきましょう。 |
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