申命記の第33章には長々と「モーセの歌」と題された賛美歌が記録されています。旧約聖書の最古の歌の一つです。この歌が残された目的は、第31章19節以下に将来必ず試練の中で喘ぐであろう未来の世代に対する神様の「証言」とするためだとあります。こういうところの申命記の将来を見渡す醒めた眼というのはドキッとするほどです。約束の地で待ち受けているのは決して薔薇色の未来ではありません。「乳と蜜の流れる」約束の地で将来必ず、「食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え」、神様を「侮って」、「契約を破る」日が来るというのです。その結果として「多くの災いと苦難に襲われる」日が来るというのです。その時、約束の世代はもはや御言葉に耳を傾ける事は忘れているわけです。しかしどんなに堕落し道をそれていたとしても賛美歌はその世代の唇に残っている。無意識に歌う賛美歌がその世代を立ち戻させるであろうというのです。
さて旧約聖書にはもう一つ有名な「モーセの歌」があります。詩90編です。こちらの方は「モーセの祈り」と題されています。千年といえども神様の眼から見れば1日のようなもの、70歳、80歳といった私たちの寿命は「朝にさいて夕べにしおれてしまう花のように」はかないものに過ぎないのであるから、「生涯の日を正しく数えるように教えてください」と歌うこの詩はこの葬儀のたびに繰り返し読まれ、現在に至るまでたくさんの賛美歌が生まれています。もちろん『讃美歌21』にも収められています。
それに比べて申命記第33章の「モーセの歌」は、実は未来の世代の立ち返りの保証ともなる大切な歌であるのに、現代の私たちは歌い継いでいないというのは少し問題ではないでしょうか。世の終わりの光景を描くヨハネの黙示録の第15章3節には、試練に勝ち抜いた聖徒たちが天上で「モーセの歌と小羊の歌をうたった」と記しています。「小羊の歌」はイエス・キリストを歌った賛美歌、「キリスト賛歌」ですから無数にあります。それと並んで他でもない「モーセの歌」が世の終わりまで歌い継がれ、終末的な試練を乗り越える聖徒たちを支え続けたと記されているのです。言い換えれば、この「モーセの歌」が再認識され、日本の賛美歌にも収められ、皆が心から歌い継ぐようにならなければ、主の祈りでいくら「御国を来たらせ給え」と祈っていても、それは口先の事に過ぎず、いつまでも終末は迎えられないという事ではないでしょうか。「モーセの歌」を美しい賛美歌として作ることは日本の教会の大きな課題であると言えるでしょう。
さてこの長い「モーセの歌」の中に大変印象深い表現があるのに皆さんはお気づきでしょうか。「御自分のひとみのように守られた」(10節)。
神様の「愛」を新約聖書はギリシア語の「アガペー」旧約聖書はヘブライ語の「ヘセド」という言葉で言い表すということはこれまで何度もこの講壇から語ってきました。それは他の「愛」という言葉とどうニュアンスが違うのですかと問われれば、「価値的な愛ではない」とかいろいろな説明があるのですけれど、もう一つ「痛みを伴うほどの愛だ」とも説明できるでしょう。「小福音書」と呼ばれるヨハネによる福音書第3章16節は「神はその独り子をお与えになったほど」の「愛」なのだと語ります。それが十字架の痛みを指し示している事を私たちは良く知っています。それと同じようこの「モーセの歌」は痛みを伴うイメージで神様の「愛」を表現しているのです。「御自分のひとみのように」と。
皆さんは自分のひとみを触れますか。コンタクトレンズの人は慣れているかもしれません。ほとんどの人は怖くて出来ないでしょう。それほど敏感なのです。「眼の中に入れてもかまわない」というのは日本語の表現では「愛」する事の最上級です。
「御自分のひとみのように」愛されたという表現はとても印象深いものですが、旧約聖書の中では意外に少ない表現で、この申命記のほかには詩117編8節とゼカリヤ書2章12節の2回だけ、あとは続編のシラ書(集会の書)17章22節しか出てきません。痛みを伴うほどの神の「愛」を表現しています。
毎年11月第1聖日に守っている「召天者記念礼拝」に欠かさず来られるご遺族の一人なのですが、「教会には行かなかったけれど、いつも縁側で賛美歌を口ずさんでいた母は確かにキリスト者だった」ということで、教会で葬儀をした方がいます。夫の関係、嫁ぎ先の関係で、キリスト者であることは表明できず、生涯を隠れ切支丹のように過ごしたその方の信仰を最後まで支えた賛美歌があったのだと思います。そしてその事を傍らにいた息子さんや娘さんは知っていたというのです。確かに賛美歌にはそういう力があります。
「モーセの歌」はそういう賛美歌を来るべき世代に残しなさいと命じているのです。
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