12月25日礼拝説教
「言は肉となって」 小海 基
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
(ヨハネによる福音書1:14)

クリスマスの喜びをどう伝えるのか?世俗化の奔流に押し流される現代でこそ、大きな問題です。

日本最初の聖書翻訳は1837年マカオで出されたドイツ人宣教師ギュツラフ訳聖書です。四つある福音書の中で何も一番難解なヨハネの福音書を選ばなくても、と思わなくもありません。ギュツラフは紀州出身の難船者である乙吉、久吉、万吉の協力で、当時の口語文で翻訳したのです(三浦綾子『海嶺』)。

主イエスの最初の弟子がガリラヤの漁師であったように、初の日本語訳も日本の漁師たちの協力で出来上がったというのは面白いことです。教会員の呉慶和さんの先祖も台湾の最初のキリスト者でしたが、漁師でした。

「ハジマリニカシコイモノゴザル」と始まるギュツラフ訳は、この箇所を次のように訳します。「カシコイモノハ ニンゲンニナラアタ ワタクシドモ トモニヲッタ…」。

新共同訳で「言」と訳されているギリシア語「ロゴス」はイエス・キリストを意味していますから「カシコイモノ」と人格的に訳したのは名訳です。こうした訳語が生まれるまでにギュツラフと三人の漁師との間にどんなやり取りがあったのかと思います。

「肉」は「ニンゲン」と訳されています。ヨハネ福音書の中では「肉」はあまり良い意味を持ちません。罪に満ちた存在です。そんなどん底にまで神のみ子は降って来られた。救いをもたらすために身を乗り出された。鎖国の時代の日本の漁師たちが罪や「肉」を理解するのはどんなにか大変であったと思います。日本神話では神々と人間は連続します。でも聖書では全く違う存在です。でもこの漁師たちは海を通してもっと広い世界があることを知っている人たちでもありました。

「宿られた」は「トモニオッタ」と踏み込んだ訳です。宿というとまだ屋根のある所を連想します。でもニンゲンの現実はもっと厳しい。最後は屋根も無い所で、体一つで風雨にさらされ波にもまれるといった体験の果てに生き残った漁師たちです。裸ひとつで震えているそこに救い主は共に居てくださった。

そのように日本最初のクリスマスの知らせが届けられたように、人間存在の深くまで入り込んだ喜びを伝えたいものです。