12月18日礼拝説教
「告知」 龍口 奈里子
「・・・『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。・・・主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます・・・。』」
(ルカによる福音書1:46―55)

天使はマリアに突然、「おめでとう」と受胎を告知します。「おめでとう」・・・これは、祝福の言葉です。しかし、当のマリアにとっては、「おめでとう」どころではありませんでした。彼女は「戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(1:29)とあります。これは至極当然のことで、彼女は「ヨセフという人のいいなづけ」ではありましたが、まだ結婚したわけではなく、もし身ごもったことを知れれば、ヨセフはなんと思うか、それに心無いうわさが周囲にも広がるかもしれない、人生を棒に振るかもしれないとそんなことをあれこれ思って、彼女の心は、不安や動揺が走っていたに違いありません。
 しかし、最後には、マリアはこう答えるのです。
「マリアは言った、『わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように』。」(1:38)マリアは出来事をすべて受け入れました。もちろん受け入れたからといって、事態が急好転するわけではありません。しかしマリアは天使の告げる「神にはできないことは何一つない」ということばに励まされて、前のめりになって、足を一歩出していくのでした。そして、この告知を受け入れ、信頼するところから、今日の「マリアの讃歌」があるのです。ふつう、「マグニフィカート」と呼ばれるこの讃歌は、マリアの信仰の歌といってもよいでしょう。自らを無力な者として、神さまにまったく自分を明け渡し、そして委ねて、お任せして生きようとしている、そんな賛美です。
47節「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」宗教改革者のマルチィン・ルターはここを「わたしが主を崇めると言っていない。わたしの魂は主を崇めるといっているのだ」といいます。自分の意思で神を崇めるのではなく、神の働きかけによって、わたしの魂が神を崇める、それがマリアの賛美なのです。
主を「崇める」の「崇める」とは、ギリシャ語では「メガリュノー」という言葉です。「メガ」というのは、「大きい」という意味です。ちなみにラテン語の「マグニフィカート」も同じ意味です。英語だと「マグニファイ」といいいますね。ですから、日本語では「わたしの魂は主を崇め」と訳されているのは、直訳すると「わたしの心は主を大きくする」となります。
マリアは、ここで、わたしたちに、信仰の核心ともいうべき大切な点を教えています。それは、「神を崇める」こととは「神を大きくする」ということなんだということです。しかし、わたしたちはその逆であることがよくあります。私たちの心の中で「神を小さく小さくして、自分自身を大きく大きく見せようとする」。もとより、わたしたちの思いで、神様を大きくしたり、小さくしたりできるはずもなく、神はいつも大きいのに、神はわたしたちの思いをはるかに超えて大きいのに、私たちは勝手に、わたしたちの枠組みの中で、神を捉えてしまったりしています。「どうせこんなことをお祈りしても無駄だろう」とか「こんなことは起こるはずもない」と最初から、神様を小さく、小さくしてしまっているのです。しかし、マリアはそうではありませんでした。天使の告知を「お言葉通り、この身になりますように」とすなおに、へりくだって、受け入れることができたのでした。
次の48節「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」
そして続く51節からの歌は、本当に力強く歌っています。
「主は、その腕で力を振るい、・・・・空腹のまま追い返されます」(51〜53節)
「思い上がるもの」とは、ルターによれば、自分たちが考えていることが一番正しい・一番よい・一番賢いと信じ込み、そのために「神を畏れる人々に立ち向かい、迫害する」人々のことだと申しています。
そのような「高ぶりを神はそのままにしてはおかれない、神は「その腕で力を振るい」高ぶる者を「打ち散らし」「権力の座から下ろし」彼らを「空腹のまま追い返す」そのような方なのだといいます。
マリアの讃歌のすばらしいのは、ここにあります。彼女は、自分に示された神の憐みをただ、自分に留めるのではなく、他の者にも広がってゆくものであることを確信し、歌うのです。神は、必ずや、社会で、低められている者を引き上げてくださるのだ、そのみ言葉の成就こそが、今、私の身に起こったのだというのです。
現実の世界は、力をもつ人だけが恩恵を被るような世界だけれども、しかし、今、自分の身に起こった出来事によって、自分一人だけに及んでいた苦しみが共に苦しむところとなり、自分ひとりだけに向けられていた憐みが、共に受ける恵みとなり、喜びとなるのだ、これがマリアの讃歌なのです。 私の関係する大学で、1年に1回、静岡県にある小羊学園という、重度の知的障害者の施設に学生をボランチィアとして送っています。この施設は、キリスト教が母体となっており、礼拝もあります。そしてやはり、クリスマスの時期には、クリスマスページェントを行うのが恒例になっているそうです。そこでのエピソードを学園が出している新聞で読みました。
クリスマスの準備の中でも、もっとも時間と手間がかかるのが、このページェントだそうで、何度も何度も打ち合わせや練習をするそうです。単語程度だけでも言葉のある人には短いせりふをいってもらい、職員の言葉に合わせて仕草で表現できるようにしたり、ひとりひとりに合わせた趣向をこらすそうです。
ある年は、羊飼いのところに天使が現れるシーンで、天井から釣り下がった大きな星にスポットライトがあたると、園生がみんなで、指差して「あ、なんて大きな星だろう」と言ったまま、動かなくなったそうです。またある年は、マリアさんが衣装を脱ぎ始めてしまって、職員が大慌てだったこともあるそうです。また、3人の博士さんが、3人とも、キリストへの贈り物をささげるのを拒否してしまったり、など、ハプニングの連続だそうです。
クリスマスをお祝いするとはこのようなことをいうのではないでしょうか。
私たちから見たら、弱さにしか見えなかったり、欠けている、だめなところとしか映らないところに、実は、主は降りてきてくださり、主を真ん中にして、小さな力だからこそ、共に不十分なところを赦しあい、共に限りあるものを分かち合い、共に生きることを喜ぶ、それがクリスマスに起こる「出来事」なのではないでしょうか。
そのような方が、この暴力的な世界に生まれたということ、そしてその中で、苦しみながらも、生き抜かれ、私たちのために、その命をささげられたということ、これが、クリスマスの意味です。私たちがクリスマスを祝い、クリスマスを賛美するのは、このためなのです。このことに深く心留めて、クリスマスを待ち望みたいと思います。