本当の「新しく」の意味
コリントU五章一七節は、新共同訳では「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。口語訳では「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」とあります。
ある人が初めて教会の礼拝に出席し、すべてが新しくなったという言葉に心をひかれて通い続けました。しかし自分は頑張っているつもりでも新しくなれない、もうだめだと思いました。
実はこの人には一番肝心なことが抜けていました。「キリストにあるならば」、新共同訳の「キリストと結ばれる」が抜けていたのです。
主の十字架と復活の出来事によって罪赦されたのだと分かった時、彼の目は開かれ、「新しく」の意味が本当に身につきました。高知県の海辺の町の時計屋さんでした。
日々新しく創造されるとは
罪というのは犯罪や不道徳にとどまらず、神をないがしろにし、神にそむくという、神との関係の破壊を意味しています。この罪、人間の問題のすべてを私たちは自分で解決することはできません。このような罪を赦されて、新しい人として創造され、神との関係を新しくされる、神との正しい関係の中に生かされる、これが新しい生命です。
コリントU四章の一六節には、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます、とあります。この新たにされる、という言葉には、古くならない質的な新しさを意味する、「カイノス」が使われています。主イエス・キリストに結ばれることによって、即ちキリストの死と復活によってすでに新しく創造されています。そしてその結果、私たちは日々新しくされる、ということを体験することができるのです。
Aさんの本当の赦しと信仰
五十二年前、一九五三年の九月五日、ある教会でAさんという女性が洗礼を受けました。Aさんは以前ミス青森に選ばれたほどの美しかった女性でしたが、美しさをねたんだ友人がAさんに硫酸をかけたため、顔は焼けただれて見る影もなくなってしまいました。Aさんは、もし本当に神がおられるならば私を助けてくださいと願い続け、やがて教会に導かれて、ここにこそ自分の生きる道・場所があると思い、洗礼を申し出ました。
その時牧師から「あなたは硫酸をかけたお友達を許しますか」と聞かれて、「その人を殺して自分も死のうと何度も思いましたが、今は赦します」と答えて受洗しました。
実はその後、硫酸をかけた女性が和歌山の刑務所で服役していることを知ったAさんは何度もその女性に手紙を書き、「私はイエス様に救われました。あなたもイエス様を信じて罪を赦されますように」と勧めました。しかし返事は一度もありませんでした。
刑期を終えて出所したその人がAさんのところに来て「度重なる手紙は私を殺すつもりだと思っていました。殺すなり何なりとあなたの思う存分にしてください」と言いました。それに対してAさんは本当にあなたを赦していますと答えました。
ある期間、Aさんはその女性と共同生活を体験しました。しかし、Aさんは身体の痛みや不自由さ、さらに前途の不安を感ずる折々に、本当には赦していない自分に気づきました。「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という主の祈りが真剣に祈れなくなりました。無理なことでも頑張るのが信仰だと考えて、かえって他人を傷つけてしまうこともある自分の破れ果てた心に打ちのめされました。
そのようなAさんは、イザヤ書五三章の苦しみを受けた僕(しもべ)の歌を読んで、改めて自分がキリストの十字架の死によって赦されているとはっきり認識しました。
Aさんは教会の文集に「赦すのは私ではない、私こそ赦されねばならぬ。主よ、赦してくださいと祈った時、主は私の罪のとげを抜き去り、魂の傷を癒してくださいました。コリントU五章一四節から一七節のみ言葉が私の具体的事実となり、イエスにある新しい者とされ、赦すということと、さらに愛するという喜びを与えられました」と、ご自分の長い信仰の生涯を振り返って書いておられます。
Aさんは、キリストに結ばれている自分を、み言葉に導かれて深いところで発見したということになります。新しい創造ということは、私たちの努力目標ではなく神の恵みのみ業なのです。
立ち帰るとは悔い改めること
イザヤ五五章七節の後半に、「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」とあります。立ち帰るとは悔い改める、元の意味では方向を変える、方向転換ということです。神の大きな赦しがあってこそ、私たちと他人との間の小さな赦しが可能となります。赦されているからこそ、赦すことへと押し出され、新しく造られた者としての成長、発展があります。
コリントU五章一七節の後半に、「古いものは過ぎ去り」とあります。古い世の破滅は定められましたが、まだ存続しています。ですから私たちは戦わなければなりません。けれどもその戦いは、新しい創造が生じたことによって起こっていることです。
キリストの十字架の死によって、私たちの罪人としての身分には死がもたらされました。そのキリストが復活されたことは、彼に罪を負って頂いた罪人、すなわち私たちすべてに対して神の子としての新しい生命が創造されたということです。
ヨハネ一六章三三節に「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」という、み言葉があります。キリストはすでに勝利しておられます。この勝利が完全に現れる終末の栄光の時を待ち望みながら私たちは今ここで新しく創造された者、「新しい生命の質」を持った人として生きることが許されているのです。 |