生命という漢字の「命」を分解すると、左側の「口」と「令」に分けられます。令とは命令するという意味で、命とは口で命ずるということ。ですから、生命とは生きよと口で命令することになります。中国ではそれは天が命ずることになるそうです。この命令は生まれた時、そして命じられる日、すなわち命日の二度、私達に下されるそうです。つまり生まれた瞬間から死ぬ命日の時まで、天は生きよと命じられておられる、それが生命だというのです。
聖書の神様と私達との関係もこれに似ています。神様はいつも私達と関わり、そして生きよと命じて下さっています。その神様との関係の中で私達の生命を使うということが、私達の使命です。さらに聖書の生命は、永遠の生命が約束されています。復活の生命を信じることを希望として歩むことが赦されている、それが聖書のいう生命です。
今日読んだイザヤ書にも新しい生命について語っています。異邦人の元でよそ者となってしまった一人の捕囚の民がイザヤであろう見張りに問います。「見張りの者よ、今は夜の何どきか。」希望の光も見えない者に対して見張りの者は答えます。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば尋ねよ、もう一度来るがよい。」見張りの者のこの答えは一見何の慰めにもなっていないようでもあります。しかしこれこそが神様が命ずる新しく生きよと言う命令なのではないか、ここに神様の伝える御言葉の意味があるのだと思います。
精神科医のフランクルの書いた「夜と霧」という書物の中にある出来事が出てきます。
1944年のクリスマスと45年の新年との間、ナチスドイツのユダヤ人強制収容所では、いまだかつてなかったほどの大量の死亡者が出たのです。その原因は、クリスマスには自分の家に帰れるだろうという、平凡な期待、希望を持ってしまったからだったというのです。実際には彼らの期待したようなことは何も起こらなかった為に希望がなくなり、生きようとする力も失われて、大量死亡につながったというのです。
イザヤの答えには解放される日が何時なのか、明快な答えはありません。しかし人間の約束する期待や希望ではなくて、神の口を通して語られる命令の言葉としてこの答えを聞いたときに、きっとこの人は、今日から何か自分ではない、人間の力ではない大きな力に支えられて生き抜くことができる、そういう新しい力が持てるようになったのではないかと思います。今はまだ小さいけれども、この小さな希望の光を何度でも見つめて歩いていけばいい。この見張りの者の答えには、そのような新しい勇気を、新しい探りの道を与えてくれます。
パウロはローマの信徒への手紙13章12節で、「夜は更け、日は近づいた、だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」と、私達の光が近いことを伝えています。希望の光が必ずくることを信じて待つ、そのような信仰を持って、生きよと呼びかけて下さる主と共に生きる者となりたいと。
私達の希望とはどんな希望でしょうか。パウロは使徒言行録で、大勢の敵対する人たちの前で、それは復活の希望だとはっきり述べています。私たちも、どんなに闇が覆ってきても、この世の力にしがみつくのではなくて、主の復活の生命に生きる、そのことにただ必死にしがみついて、さらに新しい日に向かって復活の信仰、希望と共に歩んで参りたいと思います。
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