10月16日礼拝説教
「時の終わりに立ち上がる」 小海 基
「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」(ダニエル書第12章13節)

かつてキリスト教がまだ若者の宗教と言われていた頃、霊南坂教会の牧師がYMCA、YWCAの「Y」の文字である「ヤング」を「青年」と訳しました「嘴が青い」とか「青い果実」とか言うのに合わせてでしょう。大変な名訳だと感心しますが、実は「青」という色が西欧キリスト教社会の中では異色な存在であったという研究が最近立て続けに発表されています(M・パストゥロー『青の歴史』筑摩書房、ICUの伊藤亜紀の研究等)。古代人は青を認識していなかったらしいのです。ブルーの語源はラテン語ではなくて後の古フランス語、アジュールの語源はペルシャ語ということから分かります。後にそれは「青の革命」と称されるようになりますが、12世紀ルネサンスに突然フランスのシャルトル大聖堂のステンドグラスや画家ジョットーの絵に聖なる色としての青が登場しだしたらしいのです。

その「青の革命」のような大変革を日本の教会が迎えているのではないでしょうか。年をとって、あるいは重い病気で、自分の死期というものを見つめながら教会の門をたたくと言う人が増えているのです。荻窪教会ばかりでなく日本中の教会でそういうことが起こっています。私たちの教会でも昨年から今年にかけてそういう方の葬儀が二件続きました。「青の教会」からもっと成熟した教会への大転換が起こり始めているのかもしれません。

死を目の前にしている、医者に告知された期限は当に切れている、そういう人たちが礼拝の席に座って説教に耳を傾けているということは、私たち説教者にとって大変に緊張することです。嘘や大袈裟な話は通用しません。死を乗り越える命の言葉を食い入るように求めているのが伝わってきます。

聖書の語る救い、命は、「極楽浄土」といったような「あの世」的、「彼岸的」な概念ではありません。神様の大きな赦しの中で、今の自分が既に「新しく」され、今の自分の中に「新しい創造」、「新しい命」が芽生えていると言う手ごたえを感じているという世界です。もちろんやがてくる復活の日にそれは成就するのですが、死をのりこえる言葉を聖書は語っています。
 伝道月間のコンサートの中で取り上げられるブラームスの歌は、次のようなヨブ記第3章20節以下の言葉が用いられています。「なぜ、労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか。/彼らは死を待っているが、死は来ない。/地に埋もれた宝にもまさって死を探し求めているのに。墓を見いだすことさえできれば/喜び躍り、歓喜するだろうに。/行くべき道が隠されている者の前を/神はなお柵でふさがれる」。家族も財産も健康も全て一瞬のうちに失われ、最愛の妻からさえも「神を呪って死ぬほうがまし」と言われてしまった後のヨブの悲痛な絶望の訴えです。こんな言葉を吐いている人にどんな言葉がかけられるのかと思います。中越やパキスタンの震災でもこういう思いの人がどれだけいるのかと思うのです。今、そういう思いの人たちが教会の門を叩き、その先の言葉を聴こうとしている。教会は「青」の時代からその先の時代への大きな転換期を迎えている。そうです。確かに聖書はその先の言葉を語っているのです。

このダニエル書の言葉は、旧約聖書にけっして多くは無いけれど確かに存在している「復活」証言の一つです。十字架におかかれになった主イエス・キリストが三日目に甦られた事実がついこの間に起こったばかりと言う新約聖書では、復活証言こそが伝道メッセージの中心であり、いたるところ前面に出てきます。礼拝もわざわざ安息日である土曜日から復活日である日曜日に変えたほどです。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Tコリント15:55)と、高らかに歌い上げるパウロのような思いが支配しているのが新約聖書です。しかしそれから2000年経った私たちにとって、あるいはこれまで聖書を読んだことも無く死を前にしたからこそ教会を訪ねてきたという人たちにとって、むしろ旧約のダニエルの聞いた復活の約束の方が身近に聞けるのかも知れません。

ダニエルは紀元前605年の第1回目のバビロン捕囚で異国の地に奴隷として連れてこられた青年貴族です。バビロニアの地で、名前も言葉も取り上げられ、信仰も踏みにじられ、民族絶滅の危機も幾度も経験することになります。ダニエルはそんなバビロニア社会で大臣にまでのしあがっていった人です。約70年後ペルシアによってバビロニアが滅ぼされるのにも立ち会います。ダニエルはエズラ、ネヘミヤたちと故国へ帰ることはせず、バビロニアの地に残りますが、残ったためにまた苦労を背負い続け、異郷の地で死んでいくのです。スサにダニエルの墓が今も残っています。

ダニエル書の後半は異郷の地に残り骨を埋める決断をしたダニエルにクリスマスで有名な天使ガブリエルが現れて、その後の地中海世界を襲う歴史の変遷の幻を見せるという所です。バビロニア、ペルシア、マケドニア、シリア、ローマ…といった具合に、ダニエルの死後の500年間くらい世界超大国が立て続けに交替した激動の時代は世界史の中でも他にはないというとんでもない時代です。栄枯盛衰を同時代の人々は目の当たりにしたことでしょう。普通の感覚ならおかしくなっても不思議でない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった聖書的宗教も仏教も、民族宗教で無いいわゆる世界宗教は皆この500年の世界変動の中で生まれていったという宗教学者もいるくらいです。それを天使ガブリエルからダニエルは幻の形に一気に見せられて、思い悩んでいたわけです。天使ガブリエルは悩むダニエルに「どうなるのかなんて悩んでいないで、その時が来るまで心に秘めていたら良いのだ」といって、ダニエル自身に関わる復活の約束を告げるわけです。激動の時代に生きざるを得ないダニエルにとって死は憩いだろう。その通りにお前は憩いとしての死に入る。しかし、それが最後ではない。ダニエルの望む範囲で終わるのではない。その先があるのだ。「時の終わりにあたり…お前は立ち上がるであろう」。

20世紀最大のプロテスタント神学者のカール・バルトという人が晩年うなされた夢の話を思い出します。天国への道をバルトは背中に自分の書物の重い山を背負って登っています。空では天使が自分の書物の復活について書いてあるページを破っては読み上げ、「この男は知りもしないでこんな事を書いているよ」と言っては仲間の天使たちとケラケラ笑っているという悪夢です。聖書は死の先に命があると書いている。そこから先はイエス・キリストの復活しか良く分からない。良くは分からないけれど、この命の約束はダニエルにも、死を目前にしている人にも、まだ自分の終わりということにピンときていない人にも確かな約束であり、しかもその初めを今味わい始めているのだと聖書は告げるのです。私たちも死のその先の約束にゆだね生きてまいりましょう。