9月24日礼拝説教
「ともし火を輝かせる」 龍口 奈里子
「ともし火をともして、それを穴倉の中や、升の下に置く者はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」(ルカによる福音書11:33〜36)
イエスは「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人です」(11:28)と言われます。
たしかに、信仰とは聞くことから始まります。しかし、たとえ小さな行いであっても、まず行う人、それを守る人、それが幸いな人なのだと、一歩踏み込んで、ここで言われるのです。私たちは、み言葉を見るだけで、頭で素通りしてしまい、なかなか「受け入れる」ことができません。そしてつい、目に見える幸せを欲しがり、「わたしにはこれがない」「あれもない」ということしか見えなくなるのです。せっかく、主が見えないところで、すでに準備し、告げておられる、そのみ言葉が聞こえなくなるのです。

古代の思想家であるアウグスチィヌスはこう述べています。
「実際、神がわたしたちの祈りを聞き入れるのは、わたしたちがうるさく祈り求めるからではありません。神は、わたしたちに対して、その光を、目には見えないけれども、理解できる霊的な光を与えようと、いつも待ち構えておられるのです。しかし、わたしたちの方は、他のものに心を傾け、現世的なものを求めて見えなくなっているために、必ずしも、その光を受け入れる状態にはありません。しかし、神は、わたしたちが、心を神へ向け、神の賜物を受け入れることさえできれば、いつでも与えようと待ち構えているのです。」

主は見えないところで、すでに私たちに対して光を向けておられる、「いつでも与えようと待ち構えている」。だから、うるさく祈るというような、見せ掛けの行いではなくて、ただ、神の賜物である「光」を受け入れさえすればよいのだというのです。

しかし、わたしたちの心は、この世の幸福や喜びにとらわれてしまって、ともすれば、穴倉の中や、枡の下に置いてしまってはいないでしょうか。そして、その光を照らすことができないでいるのです。光を燭台の上に置く、つまり、心を神に向け、神の言葉を聴き、それを受け入れ、守るならば、光が、わたしたちの内なる光のともし火として輝き始め、またその光が自分の傍らにいる人にも、輝かせることができるのだと聖書はいいます。

この礼拝堂を照らすろうそくの光は、たくさんはいりません。しかし、その光は燭台の下ではなく、上に高く掲げなければ、ともし火は決して輝きません。キリスト者として、誰かのためにとりなし祈り、ともし火の光を輝かせてまいりましょう。主は見えないところで、すでに私たちに対して光を向けておられます。「いつでも与えようと待ち構えておられる」のです。差し出されている光をすなおに受け入れ、御言葉に聴き従う生活へと変えられる1週間でありますように。