9月18日礼拝説教
「礼拝者として生きる」 小海 基
モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。(出エジプト記4:29〜31)
(申命記28:2,15)

私たちの荻窪教会ではモーセ五書の講解説教を続けてきて現在申命記の終わり近くまで来ていることですが、今日の修養会のテーマにあわせてもう一度出エジプト記から「礼拝」という事を聴きましょう。この箇所は、燃え尽きない柴の中でモーセが出エジプトの使命を授かっていよいよエジプトのファラオのもとに出発しようという場面です。ここで出エジプトの旅路で初めて礼拝が登場します。

礼拝に集められた顔ぶれが印象的です。それはこの40年間エジプト人であることもイスラエル人であることもやめ、ミデアン人として生きてきたはずのモーセと、80年前物心のつく以前にとっくに兄弟関係が切れていたアロン、そして40年前に「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」とモーセを冷たく突き放した長老たちです。この礼拝は気の合った者同志が集まった、家族同然なものが当然のように集まった、というようなものではありません。集められた群れです。互いにとうに忘れてしまったか、思い出しても古傷のかさぶたをかきむしり合うような間柄の者たちが集められたのです。

40年前に何が起こったのか。モーセは自分の内なる声に促されて、自分の良心と正義感に燃えて、イスラエルの同胞を虐げるエジプト人を殺害したのでした。しかし自分の内なる声、内なる義によって突き進んだからといってうまくいかなかったわけです。エジプト人としての資格は失うが、かといってイスラエル人から同胞と迎えられることは無かったのです。

今起こっていることは40年前とは正反対です。モーセの内側から欲するものは何もありません。むしろ尻込みするような困難な事態を外から神様に求められているのです。モーセは抗弁します。「弁が立たない」。「口が重い」。「舌が重い」。「わたしは何者なのでしょう」…。しかし、創造者であり全能者である神様と争って勝てる人間などいません。「さあ行きなさい」。神の出エジプトへの命令が迫ってきたのです。

これは何を意味するのでしょうか。実に私たちは皆ひとりのモーセです。私たちの内側の良いと思えること、良心、善意、義墳、情熱…といったことをどんなに振りかざしても良い実を結ぶというものではないのです。むしろ思いもしなかった外からの声、強いられた恵みに出会わされ、用いられていく中で、神様のみ業に参与していく、それが私たちキリスト者のこの世の献身、歩みです。

宗教改革者たちはこのことを一つのラテン語の合言葉で語りました。「extra nos われらの外に」。救いも義認も私たちの内側にあるのではなく外にある。

モーセもアロンも長老たちも、自分たちの内側の声に従っていたなら、この時礼拝者として集まることは無かったでしょう。内側からの必然性は無いのです。しかし外からの声が、つまり神様の声がこの人々を集め、出エジプトの旅へと赴かせたのです。まさに外からの声に集められ、共に外からの声に耳を傾け、外からの恵みに触れ、ひれ伏して喜ぶ、これこそが礼拝です。その時「信じる」群れが始まりました。出エジプトの群れが始まりました。

宗教改革は礼拝の改革であったとも言われます。それは外の形式も変わったのですけれど、そんなことよりも一番肝心なのは、改革者たちは「エクストラ・ノス」自分たちの外からの声を聴く礼拝を求めて改革したことです。教会という群れは使命を負って、外に向かって奉仕する群れだからこそ、群れを押し出す原点となる礼拝により内的に集中したい。礼拝において「エクストラ・ノス」自分たちの外からの、すなわち神様の声におしだされてこそ、私たちは出エジプトのたびに出発できるのです。自分たちの内側の声、雄弁、人間の栄光、飾り、そんなものは力にはなりません。御言葉が支配する礼拝だけが力を持ち、意味を成すのです。御言葉の前に私たちはひれ伏し、身をゆだね、献身するのです。