明日に敗戦から六十年目を迎える記念日を前にして、私たちは「申命記」の言葉の前に立っています。
教会図書にも備え付けられている分厚い聖書の「語句索引・コンコルダンス」を引いてみると、聖書全六十六巻の中で「聞き従う」という言葉が固まる様に頻出するのが、「申命記」と「エレミヤ書」であることに気づかされます。モーセの遺言である「申命記」には25回、特に今日読みました28章たった1章の中に六回(つまり「申命記」全体の四分の一)も繰り返されます。「エレミヤ」書の方は49回、つまり「申命記」の倍近く繰り返されます。二つの書物の間には七百年近い年月が横たわっていますが、同じ歴史を眺めながら「聞き従う」ことの大切さ、大きさを語っているのです。即ちモーセはヨルダン川を前にして、主の御声に「聞き従う」ことがこれから入っていく約束の地で「祝福」を得るか「呪い」を得るかの分岐点になるのだと、口を酸っぱくして語っています。預言者エレミヤは手の御声に「聞き従」わなかった結果、かつてモーセが警告していた「呪い」そのものが約束の地に成就してしまい、国を失い、皆奴隷として引き立てられる「バビロニア捕囚」をまのあたりにして、これは主の御声に「聞き従」わなかった当然の結果なのだと、痛恨の思いで罪責告白しています。聖書は実に七百年近くの年月をかけて、主の御声に「聞き従う」信仰の大切さを知り、経験したわけです。
この年はナチ・ドイツに抵抗し、ヒトラー暗殺計画にも加担したという罪によって強制収容所で処刑されたディートリヒ・ボヘッファー牧師が亡くなってから六十年目の年でもあります。彼は次から次へとナチ政権に擦寄り、魂を売渡し、骨抜きにされていくドイツの教会に向かって、主の御声に「聞き従う」ことを抜きにしては神の恵みは「安っぽく」なるのだと警告しました。もし宗教改革者ルターの「信仰のみ」「恵みのみ」を応答としての行為から切り離して聞くなら、それは「安価な恵み」に変わってしまうであろう。イエス・キリストによる神の恵みをイエス・キリストへの服従と切り離すなら、それは「罪人の赦し」ではなく安っぽい「罪そのものの赦し」と誤解され、安易な自己肯定、自己正当化に変質し、「信仰義認」は「無律法主義」へ変わり、キリスト者の倫理はただ個人的な心情倫理に留まってしまう、とボンヘッファーは『キリストに従う』という書物の中で書いています。そして主の声に「聞き従う」大切さを彼は次のように言うのです。「信じる者だけが従順であり、従順な者だけが信じる」。
先週、皆さんもご存知のように、三万筆を超える反対署名が集まったにもかかわらず、そして千人を超える傍聴希望者が押しかけたにもかかわらず、わたしたちの杉並区の教育委員会は「つくる会」がつくった扶桑社の戦争賛美の歴史教科書をわずか一票差で採択してしまいました。区の文教委員も知らない内に強引に採択方法を変え、四年前から「つくる会」教科書支持を公表している教育委員二名に、熱烈に「つくる会」を応援する右翼の衛星放送「チャンネル桜」に番組を持つ山田宏区長が教育畑以外から選んだ納富教育長が票を投じたのです。学校の先生方の公平な「調査票」に教育委員会指導室は書き換えを強要していたことも複数の全国紙で報じられましたし、文部科学省から厳しく通達が出されているのに違反して「つくる会」教科書反対を表明している教育委員に、恫喝まがいの「公開質問状」がこの教科書の著者である藤岡信勝氏自身から送りつけられ、教育委員会当日もたった二十名しか入室を許されない傍聴席の最前列に杉並区民でもない藤岡氏が座り、公正な審議を妨害したのです。こんなやり方で初めて歴史に触れる中学生の教科書が選ばれたのです。
敗戦から六十年、私はイギリスのBBCラジオ放送の記者からインタビューを受けました。「六十年という年は東洋では歴史が一回りする単位として受け止められる。六十年前の『二度とわたしたちは戦争という未来を担う若者や子どもたちの命を不条理に奪う事態を繰り返さない』と誓った思いに立つ流れと、『六十年たった。振り出しに戻った。もう戦後は終わった』と歴史をチャラにする流れの二つがせめぎ合っているのが、教科書問題、靖国問題なのだと思う」と答えました。「自虐史観」だと非難されようと私はもちろん前者を選びますし、選ぶべきだと思います。
評論家の加藤周一氏がかつて語ったようにこんな有様の日本は「第二の敗戦」を迎えつつあるのでしょうか。彼はこの国に何が残るのかと自問自答し、仏教、神道、マルクス主義、社会主義もすべて過去の幻になってしまったと断じ、そして私たちキリスト教に言及したのです。「残るキリスト教は人口の1パーセント以下だから問題にならない」(岩波ブックレット『日本はどこへ行くのか』)。ただ消費社会だけが残ったと嘆くのです。
この世の知者から「1パーセント以下だから」と歯牙にもかけられない存在なのか、それとも塩味を失わない「地の塩」としてこの社会に私たちは立ち続けているのか?「地の塩」であれ「世の光」であれという主の声に「聞き従う」群れとして私たちは今大きな岐路を前にしています。 |