8月7日
「教会墓地を求めて」 小海 基
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」
(ヘブライ人への手紙 第12章1節)

今、役員会では教会墓地購入の具体的検討に入っています。
「私たちキリスト者は復活を信じているのだから、墓地は復活までの一時的な場所に過ぎないのではないか?」
「ほとんどの教会員は墓地を既に持っているので教会としてはひつようないのではないか?」
こうした意見はもっともであると思います。
しかし教会の宣教内容が、生まれた時から死ぬ時まで、文字通り「揺り籠から墓場まで」、人間の全人生に深く関わる救いについて、更に言うならその先の希望である復活にまで関わる救いについてのものであることを具体的に示すものの一つが教会墓地であると思います。
かつて教会建築の計画が進められていた時、ミリアムの会(婦人会)やラオス会(有職者の会)のメンバーと出来たばかりの四谷のイグナチオ教会を訪れたことがあります。巨大な集中式の楕円形の大聖堂にも圧倒されましたが、それ以上に印象深かったのは地下に設けられた「クリプタ」と呼ばれる墓所でした。なるほどカトリック教会は本気で「信仰の継承」を考えているのだなと思わされました。
かつてアメリカの古い古い礼拝堂を訪ねた時のことを思い返しました。かつては村の中心にそびえるようにして建っていた教会だったのですが、現在では村自体がすっかり過疎になってしまって礼拝に訪れるのは年寄りばかりという教会でした。木のベンチに名前のプレートがつけられていたので、「これは何ですか」と尋ねますと、「ここで○○さんが毎週欠かさず礼拝を守ってきた、というそういう席であることを憶えながら礼拝を守っているのだ」という答えでした。何年に1回ゆかりの人たちが礼拝に訪ねてくるとそのプレートをみてそこに座るのだそうです。「教会は故郷なんですよ。どんなに人々が全米、全世界に散らされてもこの教会が変わらない『母なる教会』であり続けているのを支えているのはこのちっぽけな名前のプレートなんですよ」という老女の説明に感銘を受けたものです。
なるほどヨーロッパの教会は礼拝堂の壁から床から全部墓石になっています。あれも同じような意味があるのだと妙に納得しました。
復活の再会をしんじているからこそ、死者もまたそれぞれの遺族に向かってその日まで信仰を語り続けるのです。その場所がこうしたプレートであり、召天者記念礼拝に配布される召天者名簿であり、教会墓地に刻まれた名の一つ一つなのでしょう。
最近は高齢化社会の影響でしょうか、高齢になってから求道する方が増えてきました。11月第一礼拝の召天者記念礼拝の出席者もクリスマスやイースター礼拝に並んでいます。
  荻窪教会が教会墓地を持つなら出来るだけ近所で、イースターと召天者記念礼拝の当日早朝に墓地に集まって聖餐式が持てるような所が良いなあとかねてから思っていました。幸いいろいろな条件からそれに近い場所が得られそうです。皆様のお祈りの内に覚えてください。