<2019年秋の伝道礼拝> 第3回(11月24日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第3回(11月24日)説教要旨
新しく生まれる
創世記 11:1~9  エフェソの信徒への手紙 2:14~22
荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>

 イスラエルが占領下に置くパレスチナ暫定自治区には450キロにも及ぶ21世紀最大の壁があります。また聖書の時代のエルサレム神殿には、ユダヤ人と異邦人を仕切る数十センチの壁があったようです。エフェソは異邦人が多い場所で、エフェソの教会にはユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者もいました。かつてはそれぞれ信仰する神は違ったけれども今は同じ主イエスを信じ、兄弟姉妹として一つの教会で共に礼拝を守っていました。しかしいまだに「一つ」にはなれない、見えない「隔ての壁」「溝」がありました。
 ユダヤ人たちには最初から「神の民」とされてきたという自負があり、異邦人が福音を信じて教会に入ってくるならば、モーセの慣習に従って身を清めるとか割礼を受けるなどの条件付きでなければならない、としていました。パウロは「隔ての壁」を取り壊したのは律法ではなく、主イエスご自身であり、ユダヤ人にならなければ救われないと異邦人に言うならば、それは主イエスの福音に反するものだと言うのです。
 13節の「キリスト・イエスにおいて造られた」の「おいて」というのは英語で言うとイン、つまりキリストを信じるとはキリストの中に入るということです。また「御自分において一人の新しい人に造り上げる」の「おいて」もインです。人種や性別や身分や性格がどんなに違っても、私たちは主イエスの十字架によって「新しく生まれ」「一つの体」の中に入れられ、キリストにあって一つとされ、互いの「隔ての壁」を取り壊して、平和を作ってゆきます。
 しかし私たちの教会が、そのようにして「隔ての壁」を取り壊しているでしょうか?17節で、キリストが再びおいでになるとき「遠く離れているあなた方」にも「近くにいる人々」にも、「平和の福音が告げ知らされる」とパウロは述べます。遠くにいるクリスチャンではない人々から、あるいはもはやキリストを信じないであろうと私たちが思い込んでいる人たちから、福音はまず最初に伝えられ、遠くに離れていると思われた人たちの方が、永遠の命の希望にあずかることがあるということではないでしょうか。
 
 先日NHKの番組で、東洋英和女学院の校長だったハミルトン宣教師のドキュメントがありました。戦前日本で教鞭をとり校長になったミス・ハミルトンは、太平洋戦争の勃発により敵性外国人として日本で収容され監視され、そして帰国を余儀なくされました。カナダに帰国後、収容所に強制的に移住させられた日系カナダ人の教育の為に立ち上がり、高校開校のための資金や教師の要請を強く政府に要望しました。ハミルトンは、カナダでも日本でも、どちらの国の間でも「壁」の間にありましたが、両方の差別を体感する中で、平和を創りだす支援をやめることはなかったのです。「良き隣人となる」というイエスの教えをいつも学びながら、日々新たにされてその生涯を終えたのです。
 
 旧約聖書のバベルの塔の出来事は、一つの民、一つの言語、一つの文化にこだわって、かたくなであったユダヤ人に対して、神が「罰」を与え、言葉を混乱させ、民はみな全地に散らされたという物語です。しかしそれは単なる神の罰ではなく、全地に広がった民がまたさらに自分たちの信仰や文化を広げてゆき「新しい人」へと造りかえられていったことを表わしている物語でもあります。最初は混乱するけれども、多くの言葉や民族によって、互いに「壁」を取り壊して認め合う、そのような「新しい人」となることを、神様の祝福として伝えている物語なのだと思います。混乱から多様性を生んでいく、それが私たちの信仰であり、そのような人たちが集う場所が私たちの教会なのです。

<2019年秋の伝道礼拝> 第2回(11月17日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第2回(11月17日)説教要旨
わたしが引き上げた
出エジプト記2:1~10  ヘブライへの手紙3:1~6
鶴川北教会牧師 田中 雅弘先生

<メッセージ>

名前の重さ、大切さ

 生まれてきた人には、皆、誕生日があります。親が最初に子どもにしてあげることは、名前を付けることです。わが家に子どもが生まれた時に知らせが来て、取り急ぎ病院に駆け付けました。わが子との初対面を果たしても、まだ名前が付けられていないので足に付けられたタグに「たなかあかちゃん」と記されているのみでした。これでは「物」と同じで呼ぶに呼べないため大いにとまどったことを覚えています。名前の重さ、大切さが実感された体験でした。
 今日の旧約の聖書個所ですが、あるヘブライ人の家庭に男の子が生まれました。この赤ちゃんには「モーセ」と言う名が付けられました。古代では生まれてきた子に名前を付けることは、親がこの子を育てると決断を表明することでもありました。名前を付けることで、その子は、他人と区別され、かけがえのない、ただひとりの人となるのです。
 聖書の神は、呼びかける神であります。人間が呼びかける前に、先に呼びかけて下さるのです。人にはみな、神に呼びかけられる時が必ずあります。モーセもそうでありました。神から呼びかけられたそのときには「はい」と答えられるように、心を真っすぐにしていたいと思います。

 人さまざまな名前の由来

 私は長らく教会の講壇と、学校の教壇に立って仕事をしてきました。学校では生徒を相手に、聖書の授業をするわけです。授業は一方通行では成り立ちませんので、生徒を指名して聖書や教科書を読んでもらったり、質問に答えてもらったりするわけで、その時、生徒の名前を呼ぶ訳です。
 以前、漢字ひと文字で「男」と書く生徒がいました。名前は「ダン」君かと聞くと、違うという。「当ててみて下さい」と言うので複数の名前を言ってみたのですが、全部違うと言われ降参すると、「アダム」とのことでした。確かに創世記で、最初の人「アダム」は「男」という意味があります。まさかクリスチャンホームの生徒ではなかろうとは思いますが、こんな名前もありました。
 私の名は「マサヒロ」です。1957(昭和32)年生まれですが、当時この「マサヒロ」は流行りの名前だったようです。因みに、この教会の龍口奈里子副牧師は、関西学院大学時代に同窓・同学年でしたが、いつか名前の由来を伺ったところ、「奈里」とは「奈良の里」のことだそうで、随分と奥ゆかしい名前だな、と感心した思い出があります。

 モーセの誕生と命名の背景

 さて今日の聖書個所は、出エジプト記2章です。私はこれまで主日礼拝は、教団の聖書日課、「日ごとの糧」の聖句個所を取り上げて説教しております。教会暦では「降誕前節」、クリスマス前の「準備」の時に、旧約のみ言葉に目を注ぎ、神の遥かな救いの計画に心を向けようという趣旨です。モーセの誕生、そして生い立ちが記されており、特に今日のテキストでは彼の「命名」についての背後の物語が語られています。
 出エジプトの立役者は、その名を「モーセ」と名付けられました。名前にはみな「意味」が込められていますが、「モーセ」と言う名前は古代エジプトの言葉に遡るとされており、その意味は「誕生・生まれる」あるいは「生まれた子」、赤ん坊にふさわしい名前で、エジプトでは、「太郎」や「花子」のようなごく一般的な命名であったようです。
 ところがヘブライ人は、その名前の持つ音を、ヘブライ語として聞き、ヘブライ語として再解釈し理解しました。10節「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げたのですから』」。「引き上げる、引き出す、マーシャー」。こういう所に、古代の文学の語り手の技巧を読み取ることができます。「水の中から引き出す」、皆さんは何を思い起こされるでしょうか。
 出エジプト記のクライマックスともいうべき場面は、「紅海渡渉」を置いて他にありません。イスラエルの民は、実に、水の中を引き出されて、救いへと導かれたのです。奴隷の呻き、苦しみの叫びを聞かれる神は、モーセの誕生から、すでに大いなる救いのみわざを、既に準備、計画されていたのです。
 
 両極の意味を持つ「水」

 「水」は、人間の生命に必要不可欠なものには違いありませんが、同時に恐るべき脅威でもあります。ノアの箱舟の「40日40夜」ではありませんが、聖書の人々にとって「水」は両極の意味を持っています。「生命を育むもの」ばかりでなく「生命を容赦なく奪うもの」でもあります。だから「水」は、聖書の人々にとってまず「死」の象徴です。
 モーセは「水から引き出された」。まさしく死から引き出されたのです。ここに神の救いのみわざが示されています。このテキストを「赤ちゃん救出リレー」と呼んだ牧師がいます。ひとりの赤ん坊の小さな生命のために、いくつもの手が動かされて、働いて、バトンタッチされて、「救出」劇が遂行された、というのです。
 第一走者は、ヘブライ人の助産婦たち。彼女たちはファラオ、上からの命令に従わなかった。生まれ出た小さな生命を殺さなかった、否、殺せなかった。それを責められると「エジプト人と違い、ヘブライ人の母親は健康で、自分たちが行く前に生んでしまいます」、見事な大嘘ですが、そこに神の「大きな祝福」があったと伝えています。次にモーセの母親、「その子がかわいかったのを見て、三カ月の間隠しておいた。しかしもはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、その中に男の子を入れ、葦の茂みの中に置いた。さらにその赤ん坊の姉、後の女預言者ミリアムは心配して遠くから見ている。エジプトの王女が籠を拾ったのを見て、すかさず言う「この子に乳を飲ませる乳母を呼んでまいりましょうか」。なんと機転が利くことでしょうか。そしてアンカーにバトンが渡る。「その子は王女の子になった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『わたしが水の中から引き上げたのだから』」。
 
 居合わせるは、「共に」

 そこに居合わせた人々、たまたま居合わせたひとり一人、それと知らず生命のバトンを受け取り、担った人たちは、皆、女性たちでした。神の救いのみわざの種明かしを見るようです。
 長崎で原爆に被爆した歌人、竹山広さんは阪神大震災の時、「居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ」と詠みました。たまたまそこに居合わせたばかりに、不測の事態に巻き込まれ、犠牲になった人を悼んだ名高い一首です。
 そこに居合わせることを通して、神はそのみわざをあらわにされるのです。私たちは今、教会暦で「降誕前節」を過ごしています。神のひとり子、主イエスが誕生されたことは、そこに居合わせるためです。居合わせる、つまり「共に」というあり方によって、私たちを水から引き上げ、みわざのために引き出されるのです。赤ん坊は非力です。しかし決して「無力」ではありません。その非力な赤ん坊に、私たちは生命へと引き出されるのです。

<2019年秋の伝道礼拝>第1回(11月10日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第1回(11月10日)説教要旨
生まれ出づる悩み
ヨブ記 2:3~10 3:1~4 ヤコブの手紙 5:11
荻窪教会牧師 小海 基

<メッセージ)
 11月の伝道月間のテーマは、「誕生」です。キリストの誕生を祝うクリスマスを目前にし、1年前に出版された新しい翻訳の「聖書協会共同訳」誕生をめぐっても検討が始まっています。新しい命への「誕生」とは何なのかについて聖書から聞くべき時であるでしょう。 
 聖書、讃美歌の翻訳が「宿命的」に抱えてしまう問題、課題に〈差別語〉、〈問題用語〉があります。最初に使われた時は「差別」性、「問題」性を持っていなくても、時代の経過とともに増幅、強調されて「母語」となって用いられ、より深刻な影響力をもってしまいます。
 ドイツのプロテスタント教会の讃美歌が1993年に40年ぶりに改訂を行った際に、ユダヤ人差別の観点から、ルターをはじめとする従来のコラールの歌詞をそのまま継承して良いのかという問題提起がなされました。
 アブラハムの「子孫」(ドイツ語で「ザーメン」)等がユダヤ人に対するあからさまな「卑猥なはやし言葉」として用いられた歴史から、「改訂」訳の併記という形で出版されました。20世紀以降聖書翻訳の是正もなされていますが、社会の「差別」にメスを入れる課題は今も残されています。こうした一つに医学的にはすでに解決されているにもかかわらず今日まで差別されているのが〈らい〉の問題です。
 医学的にはどのような疾患であるかも明確でない「ツァラアト」(旧約ヘブライ語)、「レプラ」(新約ギリシャ語)を、「らい病・ハンセン氏病」と翻訳してしまったことで、旧キリスト教社会から始まって全世界で、患者があたかもレビ記に記された「汚れた病」を負う者、社会的に「隔離されるべき」、「不治の病」、「遺伝」するという偏見を持たれ、家族、親族にまで人権侵害が広まってしまいました。これが明らかに聖書翻訳によって人工的に生み出された「差別」であることが分かるのは、キリスト教国のハンセン病施設の多くが「隔離型」であったからです。
 このあたりの歴史を詳しく報告した名著が、荒井英子著『ハンセン病とキリスト教』(岩波書店1996年)。同書の中で「『小島の春』現象」と名づけた被害は深刻です。1932~1938年に岡山県長島愛生園に医官として在職した小川正子医師の映画で、小川自身を神話的存在にまで持ち上げられた現象です。「救う側」の小川医師たちが「天使」、「聖女」として賞賛される一方で、「救われるべき側」の患者や家族が追い詰められ、「生まれてきた意味は何のためだったのか」とヨブのように悩み、絶望に放って置かれました。2019年7月にようやく元患者と家族への賠償を国に命じましたが、「法的責任」は言及しないままです。

 ヨブ記は、最後に主がどのようにして下さったかに目を注ぐように語っています。ヨブ記のすさまじい世界を正面から見なければなりません。ヨブは全財産を奪われ、重い皮膚病を患い、最愛の妻からも、「あなたは神を呪って死んだ方がましだ」と言われ、共に泣いてくれた友人からも、「あなたの気づかない罪があるのだ」と言われました。ヨブは無垢で神さまを信じ、罰を受けるような罪は犯していないのにもかかわらず、自分の生まれた日を呪うまで絶望しました。しかし神さまを呪いませんでした。生ける神さまの答えをずっと待ち続けました。神さまから、あなたの病は因果応報のためでは無いと語られてヨブは満足します。
 イザヤ書53章では自分の生まれた日を呪うまで追い詰められた人のために、神さまは苦難の僕として重い皮膚病になり、差別、偏見の姿をとって救いをもたらせてくださったのだと語られています。旧約聖書の救いを心に刻み、クリスマスを待ちましょう。