<2015年秋の伝道礼拝>第3回(10月25日)説教要旨

「たちかえる生」               

列王記上     19:11~18
マタイによる福音書18:18~20

荻窪教会牧師  小海  基

<メッセージ>
信仰には、全力疾走で駆け抜ける信仰だけでなく、立ち止まったり、たち返ったりしてみえてくるあり方の両面があるのではないでしょうか。私たちは不安の中で一生懸命人生を駆け抜けていくのだけれども、一体何人いれば確かにされるのかという話が、旧約聖書でも新約聖書でもでてきます。今日読んだ列王記上19章もそのような箇所です。
預言者エリヤは850人の偶像の祭司や預言者たちとの大勝負に勝った後、孤立感とむなしさの中逃げて行ったホレブ山で、神様から問われます。「あなたは孤独だ、というけれど、では何人いたら確かにされるのか」と。神様はしばしば登場する非常に激しい嵐や、地震・火の中でエリヤに現れるのではなく、むしろ日常的であたり前の光景の中、静かにささやくような声で問いかけます。エリヤは一生懸命答えます。「この世界は悪い人ばかりです。私一人だけが残る。彼らはこのたった一人残されている私の命をも、奪おうとしているんです」。
私たちは、このエリヤの孤立感・孤独感がよくわかります。一つの信仰、一つの信念、一つのポリシーを通して日本のような社会で生きようとする者は、エリヤのように追いつめられる経験をしたことがあるでしょう。そういう時、「あなたは一人ではない、委ねる相手があるんだ」という言葉が聖書で与えられます。 

同じことを語っていますが、旧約と新約では語り方が少し違います。今日の新約の箇所で、二人または三人で主の名のもとに祈る時、その祈りの中に主はおられる、と述べるところから始まって、主イエスには12人のお弟子さんがいたとか、5,000人になった、何万人になったとか、新約聖書では、1から出発して段々増えていく感じです。イエスキリストはたった一人で十字架を負われて救いを成し遂げられたと語られ、主イエスの孤独と私の孤立感とが一つにされて、「ああ、そうだったのか」と気づかされることは素晴らしいことです。
しかし旧約では全く逆のアプローチをします。孤独だと感じているのは沢山いるから、持ちすぎているからではないか、ちょっと減らしてみなさい、と迫ってくるのです。アブラハムはソドムに何人正しい人がいれば、神様は滅ぼさないのか、50人から始まって10人までカウントダウンしてとりなします。ミディアン人との戦いで神様は、ギデオンに3万2千人では多すぎる、1万人にまで減らしなさいと言われ、まだ多すぎるから水を手ですくって飲んだ300人で戦いなさいとおっしゃるのです。
たった10人、たった300人でいいというカウントダウンのアプローチが意味することは、不安でない確かなものを自分と同じ人間に求めようとしているから、いつまでたっても不安の種はつきないのだ、最小限に絞ってみなさい、ということです。そこまで絞ってみた時に、神様が私たちと共におられるということは確かなことなんだ、と私たちはもう一度聞くことができるのです。
孤独の中にいる時に、最低2人または3人いればいいんですよ、というのは解決にならないかもしれない。むしろ旧約聖書のように、少し持ちすぎているから、削ってみなさい、という風にアプローチするのが案外大事なのかもしれません。
創造の一番最初に私たちに命を与えた方がいるということが確かなことで、今この時も私たちを守り導いておられるということに気づけばいいのだと聖書は語ります。私たちもいつもそこに立ちかえって、与えられた人生を駆け抜けていきましょう。

<2015年秋の伝道礼拝>第2回(10月18日)説教要旨

「たちどまる生」

詩編       126:5-6
ルカによる福音書第17:11〜19

荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>

 私たちは長い人生の中で、走るだけではなく、たちどまることも度々あるのではないでしょうか。頑張って走りすぎて、疲れて、立ち止まって休む時も、自分を省みようとする時もあります。立ち止まることは、長い人生の中の「休息」であり、「休止」であり、止まっている時間と言ってよいかもしれません。しかし、キリスト者にとっては、立ち止まることは単なる「休み」ではありません。なぜなら、そこで主イエスと出会い、信仰の歩みが始まるからです。

 今日の詩編で、捕囚時代のイスラエルの民が、先が見えずに、前に向かって走ることも歩くこともできないけれど、いつかは解放されるという一縷の望みをもって、少ない種を蒔き続ける状況であったことが書かれていると思います。それは、まるでただ生きている、「立ちどまっている」状態と言ってよいかもしれません。しかし、主は、その涙や失望を知っておられ、喜びの収穫へと導いてくださるのです。信仰者の旅路がここにあります。
 聖書はその生、「たちどまる生」を信仰と呼びます。人生の歩みの中で「たちどまった」人たちは、自分の意志で「休もう」と思ったというよりも、やむを得ない、何らかの状況や理由があって、「立ち止まった」人たちです。けれども「立ち止まる」ことによって、将来が見えないで閉じ込められていた心が、外に向かって解き放たれるように、新しい喜び、新しい希望へと導かれていくのだと聖書はいいます。それは信仰が呼び覚まされるときであり、そこにはいつも主イエスが共におられるからです。

新約聖書にも「たちどまる」という言葉が出てきました。重い皮膚病を患った10人が、遠くの方に立ち止まったまま、「先生、どうかわたしたちを憐れんでください」と叫ぶのです。叫ぶためには、祈るためには、走り続けていた足を一旦止めて「たちどまる」ことが大切なのです。それは、単なる後戻りとか、何の望みもなく死んでしまったかのような状態でもなく、叫び、祈ることができる。そのための「たちどまる」なのです。

 主イエスご自身も「たちどまられ」ます。どうか救ってくださいと叫ぶ祈りを聞き、その人のところに来られ、たちどまって、声をかけ、体に触れられ、そして癒されるのです。主イエスだけが、叫ぶ祈りを聞き、一緒になって「たちどまって」くださる方なのです。私たちは、この方が一緒にいてくださるから、安心して行き詰った時にその場に座り込むことも、老いることもできるのです。なぜなら、私たちが「たちどまる」よりも前から、主イエスはいつも共にいて寄り添っていてくださったからなのです。

 「たちどまる」ことは空しいことでも、死に向かうことでもありません。それは、壁の前に立ちふさがって、閉じ込められていたものが、まるで外に向かって解き放たれるための「生」、いわば「たちどまる生」なのです。
私たちの信仰も同じです。たとえ「たちどまって」も、私たちは、私たちの一番根っこの、奥の奥にある信仰が呼び覚まされるとき、喜びへと変えられるのです。重い皮膚病の10人は、みな清くされましたが、主イエスの元に来て感謝したのは1人だけでした。主はこの人に、こう言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
 私たちも自分たちが救われた信仰の原点に立ち返り、喜びが家族へ、友人へとつながっていくように、ここから「立ち上がって」信仰の旅路へと出かけていきたいと思います。

<2015年秋の伝道礼拝>第1回(10月11日)説教要旨

「駆け抜ける生」

イザヤ書        40:27〜31
フィリピの信徒への手紙 3:12〜16

千代田教会牧師 戒能(かいのう)信生(のぶお)先生

<メッセージ>

初代教会時代、パウロが取り組んでいた二つの闘い

今回選んだフィリピ書の個所は比較的短い個所ですが、パウロが興味深い比喩を用いて私たちの信仰のありようを説明しています。
紀元一世紀半ばの初代教会時代、パウロは単純化すれば二つの局面における闘いに取り組んでいました。一方には、イエス・キリストの福音をあくまでユダヤ民族宗教の枠の中で捉える人々がいました。彼らに対してパウロは、「もはやユダヤ人もギリシア人もない」と民族宗教の枠組みを超えて、ただイエス・キリストの信仰によって救われるという信仰理解を力強く打ち出しています。
もう一方は、地中海世界に広がっていたヘレニズム的密儀宗教の影響を受けたグノーシス的熱狂主義のクリスチャンたちでした。同じイエス・キリストの福音を信じていながらも霊的熱狂を重視し、この世の秩序や倫理をも徹底して相対化する立場の人たちです。実はパウロもこの陣営の一人と見做されていたようです。この人々は自分たちがイエス・キリストの福音において、自分たちは「既に救われている」、「既に完全な者となっている」という信仰理解を主張していたようです。パウロはまさにこの個所において二正面の論敵と対峙する中で独自な信仰理解を突き出していったのです。
パウロは後者の人々に対して敢えて「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と言います。これは決して謙遜からではありません。イエス・キリストの福音の本質的な理解において、自分はまだそれを得たわけではない、と主張しているのです。

短距離走のフォームの比喩を用いたパウロの言葉

そしてパウロは信仰理解の説明として、一つの比喩的表現を用います。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞(ギリシャ語ではbrabeion)を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(3章13b〜14節)。つまり「前のめりの前傾姿勢で目標をめざしてひたすら走る」という表現を用いているのです。これはまさにランニング、特に短距離走の際のフォームを指しています。
ここで私は突飛な連想をします。パウロが古代オリンピックの徒競走を見物していたのではないかという仮説です。競技種目には、いろいろあったでしょうが、一番の花形は徒競走でした。その徒競走を目にしたパウロが前傾姿勢で走るフォームについて触れたのではないか、と私は想像するのです。
さらに注目したいのは「目標を目指してひたすら走る」(14節)という表現です。短距離走の場合、ランナーは目標をゴール地点ではなく、ゴールのさらに向こう側を目指して走るのです。ゴール地点は通過点であり、最高スピードで駆け抜けなければなりません。そのため、ランナーの目はゴールのさらに先、向こう側に向けられていなければなりません。
私たちの人生は、一人一人がこの世に生を受けてから、それぞれが死と言うゴールに向かって懸命に走り続けるのです。しかし私たちは死のさらに先をめざして、駆け抜けて行かねばならないのです。
私は、死というゴールの向こう側を目標として走る姿勢こそが、終末信仰とか復活信仰と深く結びついていると考えています。多くの人は、人生のゴールを死と考えています。歳を取って、終点である死が近づいて来れば来るほど、体力が衰え、気力も集中力も徐々に低下して行きます。いわば放物線を描くように次第に走るスピードが落ちてきてヨタヨタ、ギクシャク、ノロノロと走り続けて、ついに足が止まったところ、それがゴール、人生の終着点、死と考えてしまってはいないでしょうか。
パウロは、自分の持てる最高スピードでゴール、死を駆け抜ける生き方を強調しているのです。

自分の不信仰に気づき、不信仰に耐えよう

私たちは自分の不信仰に気づかされています。だから、熱心に信仰深くありたいと願っています。しかし、私は敢えて、私たちは自分の不信仰に耐えるとともに、信仰深くありたいという誘惑と闘わねばならないのではないか、と思います。
三鷹の深大寺の奥に、カトリックの女子修道会があります。高い壁で覆われており、戒律が非常に厳しい修道会です。そこでは15分に一度、鐘が鳴ります。イエス・キリストを忘れないため、と伺いました。この修道会では一日6回の礼拝の合間に、畑仕事やミサに用いる聖餅というパンを全国の教会のために作る仕事もありますし、聖書や信仰書を読む読書の時間もあります。しかし、そうしたことに熱中してしまって、ついキリストを忘れてしまうため、15分に一度鐘を鳴らし、鳴った時、それぞれの場所で祈るのだそうです。
私は、自分の日々の生活を振り返って一日の内、どれくらいキリストのことを覚えて祈っているか計算してみましたら、何と合計17分でした。それ以外は神なき時間を過ごしているわけです。それくらい私たちは不信仰な者です。
しかしパウロは「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません」と言い切ります。そして加えて、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走ることです」と言うのです。

一人娘の死を経て信仰の飛躍を得た内村鑑三

無教会の指導者・内村鑑三は、1911年(明治44年)、19歳であった一人娘のルツ子を病気で失います。彼は「この病ひは死に至る病ひにあらず、必ず神、癒し給ふ」という信仰に立ち、それを公言していました。そのため実際に亡くなった時、周囲の者は内村が「神も仏もあるものか」とその信仰を放り投げるのではないかと怖れていました。
しかし内村は葬儀で「ルツ子は天国でキリストの花嫁になった」と宣言し、埋葬の際には、「ルツ子さん、万歳」と叫びます。
その姿を見て、当時第一高等学校の学生であった矢内原忠雄は衝撃を受け、それが彼の内村への傾倒と信仰の始まりであったと言われています。
内村の信仰は、もう絶対安心だというような境地とは無縁だったのです。一人娘を失うという悲劇と悲しみの中でその信仰を飛躍させ、「イエス・キリストの復活ということが、ようやく自分にも明確になった」と語るのです。
パウロが、前のめりの前傾姿勢で懸命に目標を目指して走り続けていると言う時、それは例えば内村鑑三のような信仰理解とつながっていると私は理解しています。その意味で死の向こう側をめざして前傾姿勢で、前のめりに懸命に駆け抜ける信仰に、私たちも生きたいと思います。
自分の不信仰に耐え、主なるイエス・キリストを見上げつつ、ご一緒に歩んで行きたいと心から願っています。