<2015年秋の伝道礼拝>第2回(10月18日)説教要旨

「たちどまる生」

詩編       126:5-6
ルカによる福音書第17:11〜19

荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>

 私たちは長い人生の中で、走るだけではなく、たちどまることも度々あるのではないでしょうか。頑張って走りすぎて、疲れて、立ち止まって休む時も、自分を省みようとする時もあります。立ち止まることは、長い人生の中の「休息」であり、「休止」であり、止まっている時間と言ってよいかもしれません。しかし、キリスト者にとっては、立ち止まることは単なる「休み」ではありません。なぜなら、そこで主イエスと出会い、信仰の歩みが始まるからです。

 今日の詩編で、捕囚時代のイスラエルの民が、先が見えずに、前に向かって走ることも歩くこともできないけれど、いつかは解放されるという一縷の望みをもって、少ない種を蒔き続ける状況であったことが書かれていると思います。それは、まるでただ生きている、「立ちどまっている」状態と言ってよいかもしれません。しかし、主は、その涙や失望を知っておられ、喜びの収穫へと導いてくださるのです。信仰者の旅路がここにあります。
 聖書はその生、「たちどまる生」を信仰と呼びます。人生の歩みの中で「たちどまった」人たちは、自分の意志で「休もう」と思ったというよりも、やむを得ない、何らかの状況や理由があって、「立ち止まった」人たちです。けれども「立ち止まる」ことによって、将来が見えないで閉じ込められていた心が、外に向かって解き放たれるように、新しい喜び、新しい希望へと導かれていくのだと聖書はいいます。それは信仰が呼び覚まされるときであり、そこにはいつも主イエスが共におられるからです。

新約聖書にも「たちどまる」という言葉が出てきました。重い皮膚病を患った10人が、遠くの方に立ち止まったまま、「先生、どうかわたしたちを憐れんでください」と叫ぶのです。叫ぶためには、祈るためには、走り続けていた足を一旦止めて「たちどまる」ことが大切なのです。それは、単なる後戻りとか、何の望みもなく死んでしまったかのような状態でもなく、叫び、祈ることができる。そのための「たちどまる」なのです。

 主イエスご自身も「たちどまられ」ます。どうか救ってくださいと叫ぶ祈りを聞き、その人のところに来られ、たちどまって、声をかけ、体に触れられ、そして癒されるのです。主イエスだけが、叫ぶ祈りを聞き、一緒になって「たちどまって」くださる方なのです。私たちは、この方が一緒にいてくださるから、安心して行き詰った時にその場に座り込むことも、老いることもできるのです。なぜなら、私たちが「たちどまる」よりも前から、主イエスはいつも共にいて寄り添っていてくださったからなのです。

 「たちどまる」ことは空しいことでも、死に向かうことでもありません。それは、壁の前に立ちふさがって、閉じ込められていたものが、まるで外に向かって解き放たれるための「生」、いわば「たちどまる生」なのです。
私たちの信仰も同じです。たとえ「たちどまって」も、私たちは、私たちの一番根っこの、奥の奥にある信仰が呼び覚まされるとき、喜びへと変えられるのです。重い皮膚病の10人は、みな清くされましたが、主イエスの元に来て感謝したのは1人だけでした。主はこの人に、こう言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
 私たちも自分たちが救われた信仰の原点に立ち返り、喜びが家族へ、友人へとつながっていくように、ここから「立ち上がって」信仰の旅路へと出かけていきたいと思います。